陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「南から来た男」でちょっと思ったこと

2006-09-04 22:26:40 | weblog
「南から来た男」というのは、結末の意外性で「おおっ」、と思わせる短編なのだが、ここで不思議なのは、この男はなぜ「指」をほしがるのだろうか、ということなのだ。

見方を変えれば、この男は他人の「指」がほしくて、賭けを続けているわけだ。
「車」というエサをちらつかせながら、指を取ってやろうと待ち受ける。
この場合はジッポのライターだが、さまざななケースがあったのだろう。しかも四十七人の指を取り、失った車は十数台というから、結構な勝率である。
なぜ指なんだろう?

指を切る、というので思い出すのが、「指切り」である。
指きりげんまんの「指切り」というのは、もともとほんとうに切っていたらしい。

遊女が商売ではなく、相手(といっても客なのだが)に対して、自分の想いが不変であることを訴えるために、切り落としていたわけだ。
「心中立て」とも言うのだけれど、心中、すなわちこころのなかの思いを肉体で表現するものとして、刺青で相手の名を彫ったり、爪をはがしたり、はては指を切り落としたりしていたという。

つまりこれは、自分の身体の一部を相手に差し出すことで、相手に対して進んで膝を屈し、相手からの支配を受け入れるポーズである、と考えることができるのかもしれない。

逆に言えば、相手の指を取り上げる、というのは、相手を支配するということでもある。
こう考えていけば、髪が長い生徒を、校則違反だから、という理由で、いきなり切ってしまうのが体罰であるというのも、よくわかる。たとえ痛みはなくても、髪など放っておけばまた伸びるものであっても、本人の意志に反して、いきなりジョキジョキ切ってしまうことは、相手の身体に対する侵害であり、暴力であるといえよう。

ところで、昔話を見てみると、悪い魔女や魔法使いは、たいてい、人間の姿を変えてしまう。王子をカエルに変え、子供を犬や猫に変える。メデューサは人間を石に変え、呪いをかけられた王女は石像に変えられてしまう。
つまり、邪悪な存在は、人間を別な姿に変える。

いっぽう、「女神」とか「聖者」とか人間に味方する良い「魔法使い」は、人間をしかるべき姿に「戻す」。歩けないときは、歩けるようにしてやり、病は治し、貧しい灰かぶりには、美しいドレスとガラスの靴。
けれどもその変化は、むしろ本人に「ふさわしい」変化なのである。

こうやって見ていくと、この「南から来た男」の「小柄な老人」というのは、典型的な「悪い魔法使い」ということになる。やはり悪い魔法使いは、相手の一部を変えてしまうのである。そうして、自分が相手に及ぼした「力」の記念に、指を取っておくのかもしれない。

明日くらいにはサイトにアップできたらいいなぁと思っています。
それじゃ、また。

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