陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

エリザベス・ボウエン 「悪魔の恋人」その3

2008-07-23 23:17:55 | 翻訳
その3.

 若い娘は庭で兵士と話はしたが、相手の顔をこれまで一度もしっかりと見てはいなかった。闇のなか、ふたりは木の下で別れのことばを交わしていた。この重大なときに相手の顔がはっきり見えないせいで、まるでその顔を見たことがないような気さえする。彼がそこにいることを少しでも長く確かめたくて、何度となく手を伸ばしたが、そのたびに彼の方は、思いやりがこもったとは言いがたい手つきで相手の手を取って、軍服の胸ボタンに強く押しつけた。てのひらに残ったボタンの跡がほとんど唯一の、彼女がこの先も胸に抱いていくことになるものだった。フランスからの賜暇はもう終わりかけていて、もういっそ戻ってしまってくれたらいいのに、と彼女は思っていた。1916年の8月のことだった。キスされることもなく、遠ざけられてまじまじと眺められると、キャサリンは肩身が狭くなり、ふと、彼の目のなかに化け物じみた光がきらめいたような気がした。振りかえって芝生の向こうに目をやると、木々の枝の向こうに応接間の明かりが見えた。一瞬、息をのんだ。あそこに走って戻り、安全な母や姉の腕のなかに飛び込んで、こんなふうに言うことができるなら。「どうしたらいいの? わたし、どうしたらいいの? 彼は行っちゃったのよ」

 彼女の息を飲んだ音に耳を留めて、フィアンセが、気持ちのこもらない声でたずねた。「寒いの?」
「あなたはもうすぐ遠くへ行ってしまうのね」
「君が考えてるほど遠くじゃないさ」
「わたしはわかってない、ってこと?」
「別にわからなくたってかまわないさ。そのうちわかるんだ。ぼくら話し合っただろう」
「だけどそれは……もしあなたが……もし……」
「ぼくは戻ってくる。遅かれ早かれ。そのことを忘れちゃいけない。ただ待っててくれるだけでいいんだ」

 それから一分もちないうち、自由の身になった彼女は、静かな芝生を走り抜けていた。窓越しに母と姉をのぞきこんでも、ふたりともなかなか気がついてくれない。すでにわたしはほかの人間からは隔てられてしまったのだわ、あの異常な約束をしてしまったせいで。これほどまでに自分自身が誰からも遠く隔てられ、取り残され、偽りの約束をした、という気持ちになることはないだろう。これほどまでに不吉な婚約を自分がしたなどとは。

 数ヶ月後、フィアンセが行方不明、おそらく戦死したと思われる、という知らせを受けたキャサリンは、立派にふるまった。家族は慰めてくれただけでなく、気丈な彼女に対して、賞賛の言葉を惜しまなかった。家族にとっては、彼女の夫となる人物という以上に彼のことをほとんど知らなかったので、悲しみようがなかったのである。一年か二年もすれば、あの子の悲しみも和らぐだろう、と家族は思っていた。事実、悲しみだけが問題なのであれば、ものごとはずっと簡単に進んだだろう。だが、ささやかな悲しみの背後にあったやっかいなことのために、あらゆるものごとがおかしくなってしまったのだった。彼女はほかの恋人たちを退けたわけではない。ただ、そんな相手は現れなかったのだ。何年間も、誰からも愛されることなく、三十代に近づくにつれて、彼女も家族同様、この点に関して不安を覚えるようになっていた。苦労をするようになり、迷ったあげく、三十二歳のときにウィリアム・ドローヴァーから求婚されたときは、心の底からほっとした。彼と結婚し、ふたりはケンジントンの静かで緑豊かな一画に落ち着いたのである。この家で歳月を重ね、子供たちが生まれ、そうしているうちに、つぎの戦争が始まって爆撃に追い立てられることになったのだった。ミセス・ドローヴァーとしての彼女の毎日は、ごく限られたもので、誰かに監視されているなどという考えなど、頭をよぎることもなかったのだった。

(この項つづく)


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