陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

『一房の葡萄』の教訓と底にあるもの

2008-01-09 22:59:46 | 
わたしのときは『一房の葡萄』は教科書で扱った記憶はないのだが、この作品は、小学校や中学の教科書に、一時期ずいぶん採られたようだ。
教科書というからには、ここから何らかの道徳的な教訓を引き出すことが求められているのだろう。ここではそのことを考えてみたい。

『鑑賞日本現代文学⑩ 有島武郎』には、この『一房の葡萄』が彼の実際の体験に基づくものであることが記されている。
 明治三十七年八月二十九日、フランクフォードの精神病院で看護夫をしていた有島は、増田英一・壬生馬宛の手紙に〈……実に生が怪しき執着は絵画なり。幼くして山手の英和学校に通ひつゝありし時、生は誘惑に堪えずして友の持てりし美しき西洋絵具を盗みて発見せられ、我より年長(た)けたりし其(その)友の為めに、痛くたしなめられしことあり。叔父上の紫鉛筆(其頃生が眼には最も珍かなるものなりき)の尖端を窃かに打ち切りて紫の絵の具に代へし事あり。是れ等の罪科(生の今に至るまで何人にも告げざりし)は凡て英一兄の所謂(いわゆる)頑癖の為めにの故に犯されぬ。爾来(じらい)歳月擅(ほしいまま)に移りたりと雖(いえど)も、三歳にして享けたる魂は今も生が心の宮を離れず。〉と報じている。この文面によると、有島の絵に対する〈執着〉は三歳頃から芽生えたようであり、その〈頑癖〉のために一度ならず二度も出来心に負けてしまったのである。
山田昭夫『鑑賞日本現代文学⑩ 有島武郎』角川書店

この手紙を見ると、何よりも叔父さんの色鉛筆の先を切ったぐらいで、そこまでの罪の意識を持ち続けていたことに驚くのだが、ともかくこの『一房の葡萄』は、彼の実際の経験に基づくものだったと考えてよさそうだ。
昼御飯がすむと他の子供達は活溌に運動場に出て走りまわって遊びはじめましたが、僕だけはなおさらその日は変に心が沈んで、一人だけ教場に這入っていました。そとが明るいだけに教場の中は暗くなって僕の心の中のようでした。自分の席に坐っていながら僕の眼は時々ジムの卓の方に走りました。ナイフで色々ないたずら書きが彫りつけてあって、手垢で真黒になっているあの蓋を揚げると、その中に本や雑記帳や石板と一緒になって、飴のような木の色の絵具箱があるんだ。そしてその箱の中には小さい墨のような形をした藍や洋紅の絵具が……僕は顔が赤くなったような気がして、思わずそっぽを向いてしまうのです。けれどもすぐ又横眼でジムの卓の方を見ないではいられませんでした。胸のところがどきどきとして苦しい程でした。じっと坐っていながら夢で鬼にでも追いかけられた時のように気ばかりせかせかしていました。
ほしくてほしくてたまらず、やがてそのほしいという気持ちに飲みこまれていくようすがよくわかる。
ここから、実際に絵の具を盗む場面。
 教場に這入る鐘がかんかんと鳴りました。僕は思わずぎょっとして立上りました。生徒達が大きな声で笑ったり呶鳴ったりしながら、洗面所の方に手を洗いに出かけて行くのが窓から見えました。僕は急に頭の中が氷のように冷たくなるのを気味悪く思いながら、ふらふらとジムの卓の所に行って、半分夢のようにそこの蓋を揚げて見ました。そこには僕が考えていたとおり雑記帳や鉛筆箱とまじって見覚えのある絵具箱がしまってありました。なんのためだか知らないが僕はあっちこちを見廻してから、誰も見ていないなと思うと、手早くその箱の蓋を開けて藍と洋紅との二色を取上げるが早いかポッケットの中に押込みました。そして急いでいつも整列して先生を待っている所に走って行きました。

盗みに至るまでの気持ちの揺れとその行動が緻密に描かれていく。おそらく盗むものが何であれ、何かがほしくてたまらなくなった子供が盗もうとする心理も行動も、ここのなかにすべて描かれているようにさえ思える。

そこから盗みが発覚して、主人公はクラスメイトに囲まれる。「僕の体はひとりでにぶるぶる震えて、眼の前が真暗になるようでした。」とリアルな描写が続いていく。ところが不思議なことに主人公は泣くばかりで謝ることをしない。先生のところにいってから、いよいよ奇妙な展開になっていく。先生が、唯一、主人公に反省を促すのは、わずかにこの場面だけだ。
「あなたは自分のしたことをいやなことだったと思っていますか。」
 もう一度そう先生が静かに仰った時には、僕はもうたまりませんでした。ぶるぶると震えてしかたがない唇を、噛みしめても噛みしめても泣声が出て、眼からは涙がむやみに流れて来るのです。もう先生に抱かれたまま死んでしまいたいような心持ちになってしまいました。
この部分、主人公は反省しているのだろうか。そうかもしれない。けれども「もう先生に抱かれたまま死んでしまいたいような心持ちになってしまいました」というのがしっくりこない。うっかり読み飛ばしてしまいそうだが、よく考えると非常に奇妙な文章なのである。こんなことを子供が考えているとしたら、ひどく気味が悪いように思える。

『鑑賞日本現代文学⑩ 有島武郎』には興味深い記述がある。
ところで、英和学校における〈罪科〉は、「文壇書家年譜(26)有島武郎」(『新潮』大正7・3)に〈……学校で絵具を盗み露見した恥ずかしさ。泣きやむやうに好きな若い女教師から葡萄棚の一房をもぎとつて与へられたエクスタシー〉というように告白されている。有島が語らなければ、この事実は記載されなかったはずである。注意されるのは、上記の手紙で伏せられていた〈好きな若い女教師〉への有島の思慕の情、甘美なばかりの浄罪感の思いでである。
なんとなんと、主人公の「もう先生に抱かれたまま死んでしまいたいような心持ちになってしまいました」というのは、〈エクスタシー〉だというのだ。

昨日も引用した関川夏央は「『一房の葡萄』は日本の物語ではなく、この世の物語でさえないようである。ただ回想の甘美さと「やさしい白い手」への郷愁とが強くある」と書いているのだが、そんな穏やかなものなのだろうか。
むしろ有島に強くこのできごとが記憶されたのは、この〈好きな若い女教師〉の前に出て、罪を認め、〈エクスタシー〉を感じたせいではないかとさえ思えてくるのである。

学校的な〈読み〉では、おそらく「盗み」をしたことの罪悪感と、彼をとがめず優しく包み込んだ女教師、ということが読みとられるべきなのであろう。だが、この作品にあるのは決してそれだけではない。むしろ「回想の甘美さ」は、たとえ少年であってもそうした〈エクスタシー〉を感じる、そうして記憶は、大人になっても忘れられることはない、ということが、ひそかに埋められているのである。

これはよくよく読んでいくと、相当に危険な作品じゃないんだろうか。
考えてもみてほしい。自分が叱っているはずの相手が「もう先生に抱かれたまま死んでしまいたいような心持ちになってしまいました」と考えているなんて。
これは大人の有島が記憶に付与したものではなく、事実、少年の有島がそう感じたからこそ強く記憶されているのである。


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