陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「公団嵐が丘」のふるさと

2008-04-20 22:49:48 | 

かにかくに渋民村は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川

いしいひさいちのコミックスのシリーズに「ドーナツブックス」というのがあって、これは一巻ごとに文学書のパロディのタイトルがついている。たとえば『毛沢東語録』が『毛沢東双六』になっていたり、『女の一生』が『女の一升瓶』になっていたり、『長距離走者の孤独』が『長距離走者の気の毒』になったりしていて、言葉をほんのひとつかふたつ変えるだけで、オリジナルとパロディのあいだのずれが、笑えたり、一種の権威のようなものをしゃれのめしてみたり、まったくちがう見方を与えたり、そこからいろんな物語さえもが生み出されたりするのだなあとよくわかる。『公団嵐が丘』も、そんなタイトルのひとつだ。

小さい頃から、郵便受けに差し込まれている新聞を取ってくるのはわたしの仕事で、毎週土曜の朝刊というのは、厚さがふだんの倍近くになっているのは幼い頃からよく知っていた。新聞を分厚くしているのは広告で、週末になると入ってくるのは、折りたたんだつやつやとした大型の紙で、その多くは木立を背景に、立ち並ぶ団地の絵が麗々しく描いてあるのだった。

そうした広告に踊る大きな文字は、「青葉台」だの「ひばりヶ丘」だの「桜ヶ丘」だの、よく似た名前が毎週並んでいる。子供時代は不思議にも奇妙にも思わなかったそうした名前が、いったいどういう性質のものなのか、理解するようになったのは、それからずいぶんあとだった。

そこには別の名前があったのだ。長い歴史のなかで、そこに暮らす人々が、さまざまな思いをこめて口にし、文字にも記してきた、その土地に結びついたもともとの名前があったのだ。ところが山を崩し、地形を変えて、宅地を造成するなかで、忽然と消えた山と一緒に、その山の名前も、村の名前も、跡形もなく消えてしまったのである。砧村、関戸村、古い地図や昔の小説には、いろんな村の名前が出てくる。それぞれに言われも歴史もある名前をいくつも知るようになると、その土地本来の名前を「青葉台」や「ひばりヶ丘」に変えてしまうことは、山を崩し、そこに生える木や草や菌類や、そこに暮らす生き物を根こそぎにすることと同じくらい、暴力的なことのように思えてくるのだった。

いや、考えようによっては、プラスティックのように薄い、本来の「青葉」や「ひばり」の意味をすでに失った「言葉」の残骸は、山をごっそり削り取り、その残骸に建てた家の群れにこそふさわしいものなのか。『嵐が丘』の前に「公団」とつけてしまえば、ヒースの生い茂るイギリスの荒れた台地が、一転、ベージュだのネープルズイエローだののペンキを塗りたくったマッチ箱が建ち並ぶ、新興住宅地の光景が浮かんでくるように。

だとしたら、その山を「ふるさと」として感じていた人々の「記憶」や「思い」や「歴史」はいったいどこにつなぎとめられるのだろう。姿も、名前すらも残っていない「おもひでの山」は、いったいどこにつなぎとめておけばよいのだろう。


岩手県の渋民村に生まれた啄木、というか石川一(はじめ)が、生涯渋民村を出ることがなければ、父の跡を継いで常光寺の住職となっていれば、渋民村は彼の生活の場であって、「ふるさと」とはならなかっただろう。
病のごと
思郷のこころ湧く日なり
目にあをぞらの煙かなしも

「ふるさと」が「ふるさと」となるためには、人はそこから出なければならない。そうやって、ふりかえる場所である。
己が名をほのかに呼びて
涙せし
十四の春にかへる術なし

けれどもそこで振りかえる「ふるさと」は、自分が出たそのままの場所として自分のなかに刻まれている。自分のなかでは、その「ふるさと」は、時間を止めてしまうのである。このときふりかえる「ふるさと」は、現実の場所ではない。「かへる術なし」とうたわれる場所が「ふるさと」なのである。
ふるさとの土をわが踏めば
何がなしに足軽くなり
心重れり

啄木の評伝を読めば、たいていどれにも彼が「石持て追われた」ことが書いてある。だが、「足軽くなり」「心重」くなるのはそのためばかりなのだろうか。体はそこを歩いた日々を覚えている。川のある場所も、坂道も、四つ辻もすべて覚えているだろう。けれど、「心」の方は、そこが「ふるさと」ではないことを知っている。自分からすでに失われた場所であるから「ふるさと」は「ふるさと」と意識されるのだとしたら。たとえそこを歩いていたとしても、まぎれもなく体はそこを認めても、失われた場所である「ふるさと」を、心の側は認められない。
やまひある獣のごとき
わがこころ
ふるさとのこと聞けばおとなし

「ふるさと」はそこにある。話に聞くことはできる。けれどそこには決して到達できない。
そういう場所が「ふるさと」であるならば、根こそぎにされた山の名前が、古い地図や歴史のなかに残っている限り、「ふるさと」として残る可能性はあるのだろうか。山も村も、そこに刻まれた歴史とともに、その土地の「ふるさと」として残っているのだろうか。

わたしが子供のころに毎週入っていた広告のもとになった公団住宅も、作られてから四半世紀以上が過ぎた。そこで生まれ、育ちした人も、すでにずいぶんいるのだろう。
そうした人にとっては、「青葉台」や「ひばりヶ丘」が「かにかくに」「恋しかり」のふるさとなのだろうか。A棟とB棟のあいだのケヤキの立木が、「ふるさとの山」であり、雨の日に増水して流れが速くなった排水溝が「ふるさとの川」となっているのかもしれない。
やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに


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