陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

『或る女』 その3.

2008-01-19 23:53:45 | 
葉子はアメリカに行くことになっている。母親の遺言で、アメリカにいる木村と結婚することになっていたからである。
 これから行こうとする米国という土地の生活も葉子はひとりでにいろいろと想像しないではいられなかった。米国の人たちはどんなふうに自分を迎え入れようとはするだろう。とにかく今までの狭い悩ましい過去と縁を切って、何の関りもない社会の中に乗り込むのはおもしろい。和服よりもはるかに洋服に適した葉子は、そこの交際社会でも風俗では米国人を笑わせない事ができる。歓楽でも哀傷でもしっくりと実生活の中に織り込まれているような生活がそこにはあるに違いない。女のチャームというものが、習慣的な絆から解き放されて、その力だけに働く事のできる生活がそこにはあるに違いない。才能と力量さえあれば女でも男の手を借りずに自分をまわりの人に認めさす事のできる生活がそこにはあるに違いない。女でも胸を張って存分呼吸のできる生活がそこにはあるに違いない。少なくとも交際社会のどこかではそんな生活が女に許されているに違いない。葉子はそんな事を空想するとむずむずするほど快活になった。……

 木村を良人とするのになんの屈託があろう。木村が自分の良人であるのは、自分が木村の妻であるというほどに軽い事だ。木村という仮面……葉子は鏡を見ながらそう思ってほほえんだ。

もし葉子が実際にアメリカに行っていたら、そこでの共同体のなかに自分の居場所を見つけられたかもしれない。彼女自身変わることなく、自分の持つ力をその社会のなかで発揮することができたかもしれない。だが葉子はそうでないほうの道を選択することになる。

まず葉子が乗る絵島丸が出帆する間際、ひとりの若い男がやってきて、葉子の肩に顔を埋め、行ってくれるな、とかき口説く。ところが葉子の側ではその男の記憶がまったくないのである。最初は自尊心をくすぐられた葉子も、やがてみなの好奇の視線を浴びて、その気持ちは憤りに変わっていく。
「さ、お放しください、さ」
 ときわめて冷酷にいって、葉子は助けを求めるようにあたりを見回した。
 田川博士のそばにいて何か話をしていた一人の大兵な船員がいたが、葉子の当惑しきった様子を見ると、いきなり大股に近づいて来て、
「どれ、わたしが下までお連れしましょう」
 というや否や、葉子の返事も待たずに若者を事もなく抱きすくめた。若者はこの乱暴にかっとなって怒り狂ったが、その船員は小さな荷物でも扱うように、若者の胴のあたりを右わきにかいこんで、やすやすと舷梯を降りて行った。五十川女史はあたふたと葉子に挨拶もせずにそのあとに続いた。しばらくすると若者は桟橋の群集の間に船員の手からおろされた。
 けたたましい汽笛が突然鳴りはためいた。田川夫妻の見送り人たちはこの声で活を入れられたようになって、どよめき渡りながら、田川夫妻の万歳をもう一度繰り返した。若者を桟橋に連れて行った、かの巨大な船員は、大きな体躯を猿のように軽くもてあつかって、音も立てずに桟橋からずしずしと離れて行く船の上にただ一条の綱を伝って上がって来た。人々はまたその早業に驚いて目を見張った。
ここでも『カインの末裔』の仁右衛門や『かんかん虫』のイリイッチのような大きな男が登場する。それまでの葉子の世界にはいなかった、大きな力強い男である。

乗船後、初めての食事をとるために食堂に現れた葉子の姿を見て、ほかの船客たちが興奮しているのに、葉子を救ってくれた事務長の倉地だけは、こともなげな様子である。
それだのに事務長だけは、いっこう動かされた様子が見えぬばかりか、どうかした拍子に顔を合わせた時でも、その臆面のない、人を人とも思わぬような熟視は、かえって葉子の視線をたじろがした。人間をながめあきたような気倦るげなその目は、濃いまつ毛の間から insolent (※横柄な、無礼な)な光を放って人を射た。葉子はこうして思わずひとみをたじろがすたびごとに事務長に対して不思議な憎しみを覚えるとともに、もう一度その憎むべき目を見すえてその中に潜む不思議を存分に見窮めてやりたい心になった。葉子はそうした気分に促されて時々事務長のほうにひきつけられるように視線を送ったが、そのたびごとに葉子のひとみはもろくも手きびしく追い退けられた。

それまで自分の周囲に集まってくる男たちは、彼女の力の感覚を満たしてくれるものでしかなかった。葉子が引かれていくだけの強さを持った男はひとりもいなかったのである。だが、平然と彼女の視線を見返す倉地に葉子は引きつけられていく。倉地の側もやはり葉子に引かれていたのである。
 しかし葉子はとうとうけさの出来事にぶっ突かってしまった。葉子は恐ろしい崕のきわからめちゃくちゃに飛び込んでしまった。葉子の目の前で今まで住んでいた世界はがらっと変わってしまった。木村がどうした。米国がどうした。養って行かなければならない妹や定子がどうした。今まで葉子を襲い続けていた不安はどうした。人に犯されまいと身構えていたその自尊心はどうした。そんなものは木っ葉みじんに無くなってしまっていた。倉地を得たらばどんな事でもする。どんな屈辱でも蜜と思おう。倉地を自分ひとりに得さえすれば……。今まで知らなかった、捕虜の受くる蜜より甘い屈辱!

葉子はアメリカに着いたが、病気を口実に、船から下りることすらしない。葉子を迎えに来た木村も、どれほど彼が誠心誠意をこめて訴えても耳を貸さず、追い返す。

日本に帰って倉地と葉子は同棲を始めるが、ふたりの関係は新聞に暴露され、倉地は船会社をクビになる。葉子の方は倉地の愛を得ただけで十分なのだが、倉地はそうではない。やがて倉地はスパイ活動を始めるのである。

やがて葉子は体調を崩し始める。痛みが強くなるとともに、成長して美しくなった妹に嫉妬し、倉地と妹の中を邪推し、ヒステリーを起こす。倉地はいよいよスパイ活動にのめりこみ、葉子への興味を失い、とうとう行方しれずになっていく。最後、手術に失敗した葉子は、ひとり「痛い痛い」と呻きながら死を待つのである。


倉地に会うまでの葉子が求めていたのは、力の感覚だった。もし彼女が男に生まれていたら、その力の感覚は、仕事や社会的な地位を得ることで発揮することが可能だったろう。だが、当時にあって女でありながら力を発揮することは不可能に近かった。社会活動に尽力し、名士とされていた彼女の母親でさえ、実生活では不本意な思いをすることも多かったのである。

仮に予定通りにアメリカに行けば、その社会で彼女の野心を満たすことができるような場を見つけることができたかもしれない。だが、その前に、葉子は倉地に会ってしまった。

それが日本でもない、アメリカでもない、海の上だった、ということは重要な点だろう。葉子が恋に落ちたのは、「船上」という特殊な場であったし、時間的にも、日本を離れ、アメリカに着くまでという、どちらにも属さない時間だった。

そうして、本来なら限られた場と時間だったものを、葉子は強引に日常に持ち込もうとした。葉子にとって倉地はすべてだった。スパイ活動に没頭し始める倉地を支えるために、アメリカの木村から金を搾り上げる算段までするようになる。
『或る女』という作品の中に流れる時間は明治三十四年九月二十三日から翌年の七月二十六日までの、一年に満たない期間である。だがたったそれだけとは思えないほど、作品を流れる時間の密度は濃いし、葉子の転落ぶりもまた劇的なのである。


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