陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

トマス・ハーディ「アリシアの日記」その12.

2010-06-09 22:49:29 | 翻訳
五月二十五日

 何もかもが曖昧になってきた。わたしたちの進むべき道も霧の中だ。あの方は忙しげに――少なくとも見かけだけは――行ったり来たりして、森の中に張ったテントでスケッチに余念のないご様子。妹とはふたりきりで会っておられるのかどうか、わたしにはわからない。けれども、そんなことはないのではないか、という気がする。というのも、妹はがっかりした顔であの方を待っているし、あの方がいらっしゃった気配もない。わたしが見せたとりつくしまもないような態度は、あの方にとっては良いことだったのか、それとも妹にたいして誠意を見せようと努力なさっておられるのか、どんな表情もあの方からは認められない。ああ、わたしが神様のように人の心を動かすことができたなら。そしてまた、殉教者の犠牲心が備わっていたなら……。

五月三十一日

 何もかも終わってしまった――というか、この悲劇の一幕は、空しく下りた。あの方は行ってしまわれた。キャロラインとの結婚も、日取りも口にされないまま。父はそのようなことについて、人に迫っていくような人ではないし、どんな面でも口を差し挟むこともない。若い娘ふたりでは、このようなときには何もできない。恋人たちというのは、来たいときにやって来て、去りたくなれば行ってしまうものなのか……。かわいそうなお父さんは、無骨一方の方だから、非難がましいことも、詮索めいたことも、一言も口にはしなかったけれど。しかも、ムッシュー・ド・ラ・フェストは亡くなった母が気に入った男性だったから、父に対しても絶対君主のような力を示すのだ。そんな相手に意見をするなど、母の思い出を損なうものと考えているらしい。わたしは義務感から、ムッシュー・ド・ラ・フェストに、お発ちになる直前に婚約のことをうかがった。声が震えるのはどうすることもできなかったが。

「お母様がお亡くなりになられたことで、すべて白紙に戻ったのです――何もかもが!」と、沈痛な声でおっしゃった。それがすべてだった。おそらくこのウェリーボーン牧師館にあの方をお迎えすることももうないだろう。


六月七日

 ムッシュー・ド・ラ・フェストがお手紙をくださった。一通は妹へ、一通はわたしに。
あの子宛ての手紙は、さほど暖かいものではなかったのだろう。妹の顔はそれを読んでも明るくはならなかった。わたし宛てのものは、何の変哲もない便せんに、ふつうの友人に宛てたもので、読んだあと、キャロラインに渡した。けれども封筒の奥にはもう一枚、決して誰にも見せられない紙きれが入っていた。この紙切れこそが、あの方のほんとうの手紙だった。部屋でひとり、さっと目を通した。震えながら、暑くなったり寒くなったりしながら。あの方は打ちひしがれた思いを訴えておられた。起こったことは悲しいけれど、どうしようもないのだ、と。
どうしてわたしはあの方に会ってしまったのだろう。あの方に心変わりをさせただけだったのに。ああ、ああ……


(この項つづく)





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