三日ぐらいでサマセット・モームのごく短い短篇を訳していきます。
原文はhttp://www.miguelmllop.com/stories/stories/thehappyman.pdfで読むことができます。
他人の人生に何やかやと口出しすることは危険を伴うことのはずなのだが、政治家だの社会改革者だのといった連中が、同胞の礼儀作法や習慣、ものの見方に至るまで、何とか変えさせてやろうと虎視眈々、待ちかまえているのを目にするたびに、そうした彼らの自信のほどに、舌を巻く思いでいる。わたしときたら、他人に助言するたびに、おもはゆい心地をどうすることもできないでいる。というのも、自分のことと同じぐらい相手のことをよく知っているのでなければ、いったいどうして他人の行動に対して忠告などできようか。まちがいなく言えるのは、わたしは自分のことさえたいして知っているわけではない、ということだ。まして、他人の何を知っていよう。
わたしたちにできるのは、隣人の考えていることやその気持ちを、ただ憶測しているだけに過ぎない。だれもみな、塔の独房に閉じこめられた囚人で、いわゆる人類という名のほかの囚人と、その意味するところが自分と相手とのあいだでは、かならずしも一致しない、ありきたりの記号を使って、意思の疎通を図るしかないのである。おまけに人生というものは、悲しいかな、一度きりしか送ることはできないものである。失敗は多くの場合、取り返しがつかないものだし、そうなると、あなたはこう生きるべきだ、などと言うわたしは、いったい何様だというのだろう。生きていくことは、並大抵のことではないし、完璧で文句のつけようのないまでにことを成すのがどれだけむずかしいか、わたし自身よくわかっている。だからこそわたしは、隣人に向かって、彼の人生をどうすべきであるなどと講釈する誘惑にかられることもなかったのである。
だが、人生という旅のその第一歩目からまごまごしてしまい、これから先の見通しもたたないまま、危険一杯でいるような人びともいる。そんなときには、心ならずも進むべき方向を示さざるを得なかった。たまに、わたしはこれからどうしたらいいのでしょう、などと聞かれることもあったのだが、そんなときは自分が、運命の神の黒いマントに包まれたような気がしてくるのだった。
だが、こんなわたしのアドヴァイスが、うまくいったこともある。
わたしがまだ若かった頃、ロンドンのヴィクトリア駅にほど近い、ささやかなアパートメントに住んでいたことがある。ある日の午後も遅くなり、今日の仕事はもう十分だ、と思い始めたころに、呼び鈴の音が聞こえたのだった。ドアを開けると、見ず知らずの訪問者がそこにいる。彼はわたしの名を尋ねたので、わたしは答えた。すると、おじゃましてもよろしいでしょうか、と聞く。
「もちろんですよ」
居間へ通してやり、腰かけるよううながした。客はいくぶん緊張している様子である。わたしがタバコを勧めると、帽子を持ったまま、苦労しながら火をつけようとしているので、帽子を椅子の上にのせておきましょうか、と聞いてみた。あわてて自分で置きに行き、今度は傘を落とした。
「こんなふうにおじゃましてもかまわなかったでしょうか」と彼は尋ねた。「わたしはスティーヴンスと申しまして、医者をやっております。あなたも医学者でいらっしゃいますよね?」
「ええ。ですが開業はしていないのです」
「それも存じ上げております。先頃、あなたがスペインのことを書かれていたのを拝見して、おうかがいしたいことができたのです」
(この項つづく)
原文はhttp://www.miguelmllop.com/stories/stories/thehappyman.pdfで読むことができます。
* * *
The happy man(幸せな男)
W. Somerset Maugham
The happy man(幸せな男)
W. Somerset Maugham
他人の人生に何やかやと口出しすることは危険を伴うことのはずなのだが、政治家だの社会改革者だのといった連中が、同胞の礼儀作法や習慣、ものの見方に至るまで、何とか変えさせてやろうと虎視眈々、待ちかまえているのを目にするたびに、そうした彼らの自信のほどに、舌を巻く思いでいる。わたしときたら、他人に助言するたびに、おもはゆい心地をどうすることもできないでいる。というのも、自分のことと同じぐらい相手のことをよく知っているのでなければ、いったいどうして他人の行動に対して忠告などできようか。まちがいなく言えるのは、わたしは自分のことさえたいして知っているわけではない、ということだ。まして、他人の何を知っていよう。
わたしたちにできるのは、隣人の考えていることやその気持ちを、ただ憶測しているだけに過ぎない。だれもみな、塔の独房に閉じこめられた囚人で、いわゆる人類という名のほかの囚人と、その意味するところが自分と相手とのあいだでは、かならずしも一致しない、ありきたりの記号を使って、意思の疎通を図るしかないのである。おまけに人生というものは、悲しいかな、一度きりしか送ることはできないものである。失敗は多くの場合、取り返しがつかないものだし、そうなると、あなたはこう生きるべきだ、などと言うわたしは、いったい何様だというのだろう。生きていくことは、並大抵のことではないし、完璧で文句のつけようのないまでにことを成すのがどれだけむずかしいか、わたし自身よくわかっている。だからこそわたしは、隣人に向かって、彼の人生をどうすべきであるなどと講釈する誘惑にかられることもなかったのである。
だが、人生という旅のその第一歩目からまごまごしてしまい、これから先の見通しもたたないまま、危険一杯でいるような人びともいる。そんなときには、心ならずも進むべき方向を示さざるを得なかった。たまに、わたしはこれからどうしたらいいのでしょう、などと聞かれることもあったのだが、そんなときは自分が、運命の神の黒いマントに包まれたような気がしてくるのだった。
だが、こんなわたしのアドヴァイスが、うまくいったこともある。
わたしがまだ若かった頃、ロンドンのヴィクトリア駅にほど近い、ささやかなアパートメントに住んでいたことがある。ある日の午後も遅くなり、今日の仕事はもう十分だ、と思い始めたころに、呼び鈴の音が聞こえたのだった。ドアを開けると、見ず知らずの訪問者がそこにいる。彼はわたしの名を尋ねたので、わたしは答えた。すると、おじゃましてもよろしいでしょうか、と聞く。
「もちろんですよ」
居間へ通してやり、腰かけるよううながした。客はいくぶん緊張している様子である。わたしがタバコを勧めると、帽子を持ったまま、苦労しながら火をつけようとしているので、帽子を椅子の上にのせておきましょうか、と聞いてみた。あわてて自分で置きに行き、今度は傘を落とした。
「こんなふうにおじゃましてもかまわなかったでしょうか」と彼は尋ねた。「わたしはスティーヴンスと申しまして、医者をやっております。あなたも医学者でいらっしゃいますよね?」
「ええ。ですが開業はしていないのです」
「それも存じ上げております。先頃、あなたがスペインのことを書かれていたのを拝見して、おうかがいしたいことができたのです」
(この項つづく)
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