陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

自転車置き場と「正しい」論理

2007-10-18 22:54:26 | weblog
駅からの帰り道に、途中、スーパーがある。
そのスーパーの駐輪場は、わたしが通りかかる時間帯はいつも自転車であふれていて、そのままだと舗道をふさぎかねない。だからスーパーの側も、自転車の整理にあたる人を雇っている。何人かいるようだが、そのどの人も初老の男性で、自転車が新しく入ってくると、スペースをあけ、その人が停めたあとは置き直し、買い物を終えて出ていくと、また新しく入ってきた自転車を誘導する、なかなか大変な仕事だ。冬は寒いだろうし、夏は暑いだろう、雨の降る日は自転車も少ないが、それでも合羽を着て、少ない自転車を整理している。

わたしもいつも世話になっているのだが、つねにそんな具合で自転車の置き場所を少しずつ直しているものだから、停めた場所に自転車がないことはめずらしいことではない。ときには手前の列に置いていたはずが、奧に置き直されていたりもする。それでもまあ自分の自転車だし、一目で見渡せるぐらいの駐輪場なので、困るようなことはなかった。

ところが今日、買い物を終えて自転車置き場に行ってみると、三十代前半くらいの女性が、自転車整理のおじさんにくってかかっている。ヒールのある靴を履いたその人は、小柄なおじさんよりはるかに大きく、腕を組んで、まるでのしかかるようにして、大声で文句を言っていた。

「人の自転車を勝手に動かして、それでいいと思うてるんですか」

一応、質問の体裁ではあるが、当然語尾はさがっていて質問などではない。その人はどうやら荷物が多くなるから、入り口の脇に置いたところが、「勝手に」奧に置かれてしまったらしい。いったいどこに置いたんだ、この荷物をどうしてくれるんだ、自転車をここまでもってこい、それよりも、勝手に動かすことがけしからん、これはわたしが自分の自転車を見つけて、荷物を入れて、自転車を出す間に耳に入ってきたことを整理して書いたのだが、ともかくその人はこんな理路整然? とした調子ではなく、おもいつくまま、大声でまくしたてていたのだった。

人だって何ごとかと振り返って見る。そういうなかで強い調子で言いつづけるのは、どうしたものだろう。ともかく、その人はあくまでも、自分が正しい、相手が悪い、という強い確信を持った人のそれだったのである。人のものを勝手にさわるのは泥棒と一緒、という論理を遠くで聞きながら、正しい-間違っている、という区分が、どれだけひとりよがりなものなのか、正しいと確信している人には気がつかないものなのかもしれないと思ったのだった。

わたしは性格が穏やかなので、というのは嘘だけれど、きっとこれは習慣という要素も大きいのだと思う。たぶん、記憶にある限りでは、そんなふうに人を怒鳴りつけたことはない。もちろん、そういうことがなくここまでこれた、ということもあるのだろう。自転車の位置を変えられたぐらいで、と思うのは、わたしのそうした幸運もあったのだとは思う。

それでも、自分はまちがってない、自分は正しい、と思うのは、あくまでも自分の判断であって、自分以外の人はそうは思わないのかも知れないのだ。「これは正しい」「あれは間違っている」という判断は、もしかしたら恐いことなのかもしれない、と思った経験だった。