ファストフードの店でお昼を食べてから、ちょっと書き物をしていたら、ついたてを隔てた向こうから、二十代の女性がふたり話している声が聞こえた。すぐ隣で大きな声で話しているので、いやが上にも耳に入ってくる。聞くともなしに聞いていると、一方の女性が、彼氏がひどい、としきりに言っているのだった。
あのときはああいうことを言った。また別のときには、どういうことをした。それがあとからあとから続くのである。
ロアルド・ダールの『マチルダは小さな大天才』のマチルダのように、そのうち「またやられた。ひどい。ゆるせない。すごい仕返しを考えなくては」と言い出すのではあるまいか、と思っていたが、そうは続かず、自分がどれほどひどいことをされたか、話し相手の共感さえ得られれば、あるていどは気が済むらしかった。
ただ、聞いていて、ふと奇妙なことを思ったのだった。
いまではあまり聞かなくなってしまったけれど、昔は「えんま帳」という言葉があった。地獄の閻魔大王が、生前の行為を書きつけておく帳面のほうではなくて、学校の先生の方が受け持ちの生徒の操行について書きつけるノートのほうだ。
話を聞いていて、ふと、その「えんま帳」を思いだしたのだ。先生の「えんま帳」は、通知票をつけるためである。けれどこの人の「えんま帳」は何のためにあるのだろう、と思ったのだった。
わたしたちはよく、自分がしたことと、相手にされたことを秤にかけて、自分の方がひどいことをされたと感じたときには、そうやって「えんま帳」に書きつけるようなことをやってしまう。傷つけられたり、いやな思いをさせられたりするたびに、その罪状は増えていく。
けれど、身近な友人の「えんま帳」はいったい何のために作ってしまうのだろう。
相手の罪状をすべて記録して、有罪を認めさせたら、相手は反省して、自分のことを大切に思ってくれる? そんなことがありえないことは、少し考えたらわかるはずだ。
商取引なら、等価交換が原則だから、相手がこちらに与えた損害は訴え出ればいい。不良品を買ってしまったら、交換してもらえばいいし、店にクレームをつければいい。けれど、身近な人間関係は、果たしてこの等価交換をベースにしているのだろうか。こちらが「損害」と感じていることを測る、客観的な目安がいったいどこにあるのか、という問題もあるけれど、それ以前に、相手のやったことなしたことにクレームをつければ、相手はそれを弁償しようと言うよりは、むしろ、気分を害し、離れていくだろう。
相手の理不尽な振る舞いに気分を害したのなら、それは当の相手に伝えるしかない。それでも、それは「わたしはこういうことをした」「それにたいしてあなたはこういうことをした」「それを差し引きすれば、あなたはわたしにこれこれの損害を与えた」というのは、商行為であって、人間関係を作っていくときのやりかたではないように思う。
「わたしはこういうことをした」というのは、あくまでも「わたし」の見方感じ方であって、相手が同じように考えているとは限らない、というか、考えていない確率の方が高い。
ロアルド・ダールのマチルダは、彼女のことを何一つ理解してくれない両親の下に生まれた。図書館で借りてきた本を読んでいると、本など読んだこともない父親に、その本をずたずたに引き裂かれてしまったのだ。マチルダは、そのときに考える。「またやられた。ひどい。ゆるせない。すごい仕返しを考えなくては」
その仕返し、というのは、帽子にべったりと接着剤を塗っておく、とか、そうしたことなのだけれど、そういう仕返しを考えることで、何とか小さなマチルダは、自分を守ろうとしているのだ。彼女にとっては、両親は敵なのである。
相手は、自分の交渉相手なのか、敵なのか、それとも関係を作っていく対象なのか。
「えんま帳」を作るのだったら、その相手を自分は何に分類しているのか、考えた方がいいと思う。少なくとも、等価交換は、友人関係のベースにはならないはずだ。その人と一緒にいるだけで楽しい、というのが、その基本ではないのだろうか。
あのときはああいうことを言った。また別のときには、どういうことをした。それがあとからあとから続くのである。
ロアルド・ダールの『マチルダは小さな大天才』のマチルダのように、そのうち「またやられた。ひどい。ゆるせない。すごい仕返しを考えなくては」と言い出すのではあるまいか、と思っていたが、そうは続かず、自分がどれほどひどいことをされたか、話し相手の共感さえ得られれば、あるていどは気が済むらしかった。
ただ、聞いていて、ふと奇妙なことを思ったのだった。
いまではあまり聞かなくなってしまったけれど、昔は「えんま帳」という言葉があった。地獄の閻魔大王が、生前の行為を書きつけておく帳面のほうではなくて、学校の先生の方が受け持ちの生徒の操行について書きつけるノートのほうだ。
話を聞いていて、ふと、その「えんま帳」を思いだしたのだ。先生の「えんま帳」は、通知票をつけるためである。けれどこの人の「えんま帳」は何のためにあるのだろう、と思ったのだった。
わたしたちはよく、自分がしたことと、相手にされたことを秤にかけて、自分の方がひどいことをされたと感じたときには、そうやって「えんま帳」に書きつけるようなことをやってしまう。傷つけられたり、いやな思いをさせられたりするたびに、その罪状は増えていく。
けれど、身近な友人の「えんま帳」はいったい何のために作ってしまうのだろう。
相手の罪状をすべて記録して、有罪を認めさせたら、相手は反省して、自分のことを大切に思ってくれる? そんなことがありえないことは、少し考えたらわかるはずだ。
商取引なら、等価交換が原則だから、相手がこちらに与えた損害は訴え出ればいい。不良品を買ってしまったら、交換してもらえばいいし、店にクレームをつければいい。けれど、身近な人間関係は、果たしてこの等価交換をベースにしているのだろうか。こちらが「損害」と感じていることを測る、客観的な目安がいったいどこにあるのか、という問題もあるけれど、それ以前に、相手のやったことなしたことにクレームをつければ、相手はそれを弁償しようと言うよりは、むしろ、気分を害し、離れていくだろう。
相手の理不尽な振る舞いに気分を害したのなら、それは当の相手に伝えるしかない。それでも、それは「わたしはこういうことをした」「それにたいしてあなたはこういうことをした」「それを差し引きすれば、あなたはわたしにこれこれの損害を与えた」というのは、商行為であって、人間関係を作っていくときのやりかたではないように思う。
「わたしはこういうことをした」というのは、あくまでも「わたし」の見方感じ方であって、相手が同じように考えているとは限らない、というか、考えていない確率の方が高い。
ロアルド・ダールのマチルダは、彼女のことを何一つ理解してくれない両親の下に生まれた。図書館で借りてきた本を読んでいると、本など読んだこともない父親に、その本をずたずたに引き裂かれてしまったのだ。マチルダは、そのときに考える。「またやられた。ひどい。ゆるせない。すごい仕返しを考えなくては」
その仕返し、というのは、帽子にべったりと接着剤を塗っておく、とか、そうしたことなのだけれど、そういう仕返しを考えることで、何とか小さなマチルダは、自分を守ろうとしているのだ。彼女にとっては、両親は敵なのである。
相手は、自分の交渉相手なのか、敵なのか、それとも関係を作っていく対象なのか。
「えんま帳」を作るのだったら、その相手を自分は何に分類しているのか、考えた方がいいと思う。少なくとも、等価交換は、友人関係のベースにはならないはずだ。その人と一緒にいるだけで楽しい、というのが、その基本ではないのだろうか。