学生時代に寮にいたころ、電話当番をやっていたことがある。
まだ携帯電話などない時代で、電話がかかってくると、その寮生を呼び出すのだった。
じき、受話器を取って、もしもし、という相手の声を聞くだけで、誰にあてた電話か、だいたいわかるようになってきた。呼びだした人間がやってくると、その場を離れることにはしていたが、それでも人間関係は次第につかめてくる。
「もしもし、××さん、お願いします」というだけでも、不思議なくらい、相手の気持ちというのはわかることを知った。
ああ、最近××さんにやたらかけてきてくるこの彼は、あの人が好きなんだな、とか、ああ、このふたりはダメになりかけているのだな、とか、△△さんのお母さんは、このところ△△さんの帰りが遅いから、心配してこの時間になるとかけてくるのだな、とか、たとえ詮索するつもりなどなくても、電話をとりつぐだけで、相手のプライバシーの一端を知ってしまうのだった。
不思議なことに、当人より、取り次ぐだけのわたしの方が気がつきやすいのかもしれない、と思うようなことも何度かあった。
彼女の名前を発音するのがうれしくてたまらないような声を出す彼なのに、彼女の方は、相手は自分のことをどう思っているのだろう、と悩んでいたり。
いかにも不安そうなお母さんに対して、子供の方は、うざいからいなくても風呂へ入ってる、とか、適当に言っておいて、とわたしに言ってきたり。
そういうときは、どこまで言ったらいいのか、そもそもそう聞いてしまうわたしの耳に、どこまで根拠があるのだろうか、と悩むこともあった。
意外と、自分が当事者になってしまうと、相手の気持ちというのはかえってわからなくなってしまうのかもしれない、と思ったのも、このときの経験だった。
ただ、その時期ほど、電話でさまざまな人の声を聞いたことはなかったし、声しか知らない相手が、苛立ったり、胸をときめかしたり、心配したりしながら、「もしもし、××さんお願いします」というのを聞きながら、その息づかいに耳をすませるような経験もなかった。声は、驚くほどさまざまなものを伝える、と思ったのだった。
いまは連絡を取り合うのも、メールが中心になってしまった。
メールの最大の弱点は、受話器を取った瞬間に、ぱっと相手の声が聞こえてくるというものではないことだ。
文字のやりとりだけだと、どうかすると、その向こうに人がいることを忘れそうになる。
実際には会ったこともない相手だとなおさら、具体的な「その人」は見えてこない。
それでも、その文字を読みながら、わたしはその向こうに聞こえる声に耳を澄まそう。
実際の声よりも、行間から聞こえてくる声は、もっと、おぼろげで、あやふやかもしれない。
聞きたい声をそこに読みこんでしまうのかもしれない。
それでも、ときに読み損なったり、受けとめ損なったりしたとしても、そのたびごとに修正していけば、少しずつチューニングも合ってくるのではあるまいか。
まだ携帯電話などない時代で、電話がかかってくると、その寮生を呼び出すのだった。
じき、受話器を取って、もしもし、という相手の声を聞くだけで、誰にあてた電話か、だいたいわかるようになってきた。呼びだした人間がやってくると、その場を離れることにはしていたが、それでも人間関係は次第につかめてくる。
「もしもし、××さん、お願いします」というだけでも、不思議なくらい、相手の気持ちというのはわかることを知った。
ああ、最近××さんにやたらかけてきてくるこの彼は、あの人が好きなんだな、とか、ああ、このふたりはダメになりかけているのだな、とか、△△さんのお母さんは、このところ△△さんの帰りが遅いから、心配してこの時間になるとかけてくるのだな、とか、たとえ詮索するつもりなどなくても、電話をとりつぐだけで、相手のプライバシーの一端を知ってしまうのだった。
不思議なことに、当人より、取り次ぐだけのわたしの方が気がつきやすいのかもしれない、と思うようなことも何度かあった。
彼女の名前を発音するのがうれしくてたまらないような声を出す彼なのに、彼女の方は、相手は自分のことをどう思っているのだろう、と悩んでいたり。
いかにも不安そうなお母さんに対して、子供の方は、うざいからいなくても風呂へ入ってる、とか、適当に言っておいて、とわたしに言ってきたり。
そういうときは、どこまで言ったらいいのか、そもそもそう聞いてしまうわたしの耳に、どこまで根拠があるのだろうか、と悩むこともあった。
意外と、自分が当事者になってしまうと、相手の気持ちというのはかえってわからなくなってしまうのかもしれない、と思ったのも、このときの経験だった。
ただ、その時期ほど、電話でさまざまな人の声を聞いたことはなかったし、声しか知らない相手が、苛立ったり、胸をときめかしたり、心配したりしながら、「もしもし、××さんお願いします」というのを聞きながら、その息づかいに耳をすませるような経験もなかった。声は、驚くほどさまざまなものを伝える、と思ったのだった。
いまは連絡を取り合うのも、メールが中心になってしまった。
メールの最大の弱点は、受話器を取った瞬間に、ぱっと相手の声が聞こえてくるというものではないことだ。
文字のやりとりだけだと、どうかすると、その向こうに人がいることを忘れそうになる。
実際には会ったこともない相手だとなおさら、具体的な「その人」は見えてこない。
それでも、その文字を読みながら、わたしはその向こうに聞こえる声に耳を澄まそう。
実際の声よりも、行間から聞こえてくる声は、もっと、おぼろげで、あやふやかもしれない。
聞きたい声をそこに読みこんでしまうのかもしれない。
それでも、ときに読み損なったり、受けとめ損なったりしたとしても、そのたびごとに修正していけば、少しずつチューニングも合ってくるのではあるまいか。
赤電話って、10円玉がいっぱいになると、落ちずに途中で止まったままになり、電話がかけ放題になるんですね。前の女の子が話し終えて私の番になると、「いま、タダでかけられますよ」と言ってくれる人もいて、奇妙な連帯感を覚えたこともあります。
メールは声から相手を想像するというわけにはいきませんが、やはり理知的で素敵な女性を思い浮かべて書いてますね。どんな女性だろう?一度、顔を見てみたいなと思うこともありますが、堤中納言物語の「鬼と女とは人に見えぬぞよき」という言葉が頭を過ります。
陰陽師さんのブログを読んでいると、ふと懐かしい昔に帰れます。ありがとうございます。
赤電話。懐かしいですね。
もう赤電話をずいぶん見ていないような気がします。
町内の煙草屋さんのガラスの狭いカウンターに赤電話がでんとのっていた、そんな風景を思い出しました。
arareさんの書き込みを拝見して、一緒に、寮の電話がピンクだったことも思い出しました。番号案内とかかけようと思うと、鍵を裏から差し込む。十円玉が追いつかないような遠距離にかける人は、鍵を使って電話をかけて、あとで通話料を聞いて、それを払うんです。だけど、たまにそれを忘れる人がいて、月末、電話料金が請求額と合わなくなって頭を抱えたこともありました。
> 赤電話って、10円玉がいっぱいになると、落ちずに途中で止まったままになり、電話がかけ放題になるんですね。
こんなことがあったんですか!
なんか、のんびりした時代だったんですね。
公衆電話があちこちから撤去されたのは、もちろん携帯が普及したこともあるけれど、それ以前から、テレフォンカードの偽造が問題になったこともあったかと思います。
もちろん海外通話などそんな電話ではできなかっただろうから、10円玉が落ちなかったとしても、当時の電電公社側の被害など、知れたものだったのでしょうが。
つい先日、携帯を忘れて、出先で急に電話をかける必要が生じて、さんざん電話を探したんです。ほんとになくて困りました。
世の中が便利になると、かえって不便になることってありますよね。
>「鬼と女とは人に見えぬぞよき」
あはは、わたしは鬼ではありませんが、「理知的で素敵な女性」も残念ながらハズレです(笑)。
「そういうのではない」そうです(と、言われたことがあります)。
まったくそういうのではなくて「どういうの」なんでしょうね。失礼しちゃいますね(笑)。
ヒント:「ほっほっほっ。あんたが恐いわけがない」
って、わたしは「 鬼 」ではありませんからね~。
書きこみ、ありがとうございました。