「わたしが数多く撮ったのは、異形の人々です。わたしは最初からそうした被写体を含めて撮ってきましたし、そのことは同時に刺激的な経験でもありました。そのころ、わたしは異形の人々を崇拝していました。いまでも崇拝している人が何人かいます。彼らと親しい友人になった、などということを言おうとしているのではなく、かれらを見ていると、恥ずかしさと畏怖の入り交じった気持ちになった、と言いたいのです。異形の人々を題材にした伝説には、ひとつの特徴があります。登場人物が行く手を遮り、難題に答えなさい、と命じるのです。多くの人は、そんな大きな心の傷になりかねない経験に出くわすことを恐れながら、人生を生きていきます。けれども異形の人々は、すでにトラウマを抱えて生まれてきました。かれらは最初から人生のテストに合格しているのです。その意味で、貴族なのです」(ダイアン・アーバスの言葉から 訳は陰陽師)
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『エスクァイア』のロバート・ベントンは、定期的にダイアンに仕事を依頼した。
50年代、マリリン・モンローと並ぶセックス・シンボルであったジェーン・マンスフィールドが、'60年代になって母となった写真も、そうしたなかの一枚である。
http://www.thevillager.com/villager_39/diane.jpg
ベントンは当時を振り返ってこう語る。
「「ダイアンは最新のコンタクト・シートをもって美術部にやってきたが、わたしはいつも驚かされた……というより、つねにこちらの予想がくつがえされたのだ」……でっぷり肥って誇らしげな母親となったジェーン・マンスフィールドも、ダイアンが撮るとニューヨークの奇形者と同じような緊張感をはらんでいたのである。そのうちにベントンは「われわれ(写真を見る者)も彼ら(撮影された人びと)とまったく変わりがない」ことに気がついたという。「それがダイアンならではの独特なスタイルだった――、一見したところは単純だが、非凡なアプローチによってすべての対象と取り組み、相手が何者であろうと態度は変わらなかった。そして、奇形者でも普通の人間でも、ある面では同じ存在だということを示す。ダイアンの作品の中では『奇形者』とか『健常者』という言葉は意味がなくなってしまう。ダイアンにとってはどちらも同じだし、相手によって手心を加えることもなかったからだ」
60年代半ばごろから、ダイアンは二十世紀初頭ドイツの写真家アウグスト・ザンダーの写真を研究するようになった。
http://www.halstedgallery.com/artists/a_sander/inventory/index.htm
ザンダーはさまざまな職業に就く人間を撮影し、それを分類し配列することで、「二十世紀の肖像」を撮ろうとしたのである。
「われわれは、真実を見ることに耐えることができねばならない。だが、何よりもまず、われわれは真実をわれわれとともに生きる人びとに、そして後世に伝えるべきである。それがわれわれにとって好ましいものであろうと、好ましくないものであろうと。私が健全な人間として、不遜にも、事物をあるべき姿やありうる姿においてではなく、あるがままの姿において見るとしても、許していただきたい」(多木浩二『写真論集成』岩波原題文庫《写真集August Sander : Menschen des 20. Jahrhunderts, Schirmer/Moser Verlag GmbH, 1980》)
ダイアンはザンダーの写真を学ぶことで、あらためて、人間の内面を引き出すカメラの力を意識するようになったのである。
1965年、ダイアンの作品が、ニューヨーク近代美術館の「最新入手作品」四十点のうちの三点として展示される。
そのひとつが「ヌーディストキャンプのある家族の夕べ」である
作品に対する観客の反応は厳しいものだった。
展示されている間、職員は毎日ダイアンのポートレイトに吐きかけられた唾を拭き取らなければならなかったという。
1967年、ニューヨーク近代美術館で「ニュー・ドキュメンツ」展が開催された。ダイアンがこれまで撮ってきた写真の中から、三十点が公開された。双生児のポートレイト、「ヘアカラーをつけた男」などのダイアンのポートレイトは最大の注目を集める。
だがマスコミや一般の観客の評価は「奇怪」「悪趣味」「覗き趣味」と、悪意に満ちたものがほとんどで、「卑俗な興味の対象となり、対象者がそこにおのれを投影してくれないのではないか」というダイアンの危惧は現実のものとなった。
健康状態は依然として芳しいものではなかった。肝炎を患い、また間断のない欝症状とも闘いながら、それでもダイアンは写真を撮り続け、一方で65年からパーソンズ・デザインスクールで教え始める。
経済的には恵まれなかったが、彼女の評価は、写真家や写真家の卵の間で、揺るぎのないものになりつつあった。
1969年、別居中だった夫アランは、ダイアンと正式に離婚し、若い女優と再婚、ハリウッドに移って、俳優の仕事に本格的に取り組むことになった。
別居しても、アランは技術的にも、また精神的にも経済的にもダイアンを支え続けていた。
その彼女のスワミ(ヒンドゥー語で「導師」の意を持つ言葉で、ダイアンは14歳のころから彼をそう呼んでいた)がニューヨークから離れたことで、ダイアンは孤独になっていく。
ダイアンはペンタックス・カメラを手に入れたいと思っていた。卸値で買えるよう計らってくれた友人がいたが、その千ドルの工面がつかない。そこで写真のマスター・クラスを開講し、受講生から授業料を徴収することになった。
1970年ごろになるとダイアンは若手写真家の間で伝説的な存在になっていた。多くの希望者が集まった。
「ダイアンは生徒たちに「現実的なものを撮る」よううながした。「現実的なものこそ、幻想(ファンタジー)なのです。幻想は現実から生まれます。非常に現実的だからこそ、幻想的なのです……幻想的だからこそ現実的なのではありません。現実は現実です。現実を仔細に調べてみると、かならずや幻想に達します。現実という言葉を使うとき、それはカメラの前に実際にあるものの表現でなければなりません。わたしが言おうとしているのは、現実を現実と呼び、夢は夢と呼ぼうということです」……
ダイアンはさらにこうも言った。「写真は特殊なものを対象としなければなりません。リゼット・モデルにこう言われたのを思いだします。『対象が特殊であれば、それだけ普遍的になる』と」……
あるときダイアンは授業の終わりに次のような考えを述べた。「どうしていいかわからなくなったら、写真から目をそらして、窓の外をごらんなさい。なぜなら、現実を見ることこそ、自分の写真をつくるという行為にほかならないからです。わたしはみなさんに写真の話ができます。わたしたちはみな口がきけ、目が見えます。わたしたちの前にはすべてが開かれているのです」」
1971年になると、ダイアンの鬱病は一層深刻なものになった。
人が自分の作品に感心する理由がわからない、他人にとって価値があると思えない、と言い張り、一方で「フリークの写真家」とレッテルを貼られることを怖れてもいた。
孤独になることを怖れつつ、仕事の完成を求めて、人びとを切り離そうともした。
七月、両手首を切って、空の水槽に横たわっている彼女が発見された。
※ここでアーバス自身の写真を見ることができます。一番上の少しぼけているのが1971年、教え子のエヴァ・ルビンスタインが撮ったもの。ひとつおいて、5歳のダイアン、その下が15歳のダイアン。さらにひとつおいて、「あなたのこんなところが好き……」と題された『グラマー』に掲載されたダイアンとアラン。
(この項続く)