陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

グレアム・グリーン 『破壊者』その5.

2004-10-29 18:21:39 | 翻訳
3.

つぎの朝から、本格的な解体が始まった。来なかったものがふたり。マイクともうひとりはそれぞれ親に連れられて、サウスエンドとブライトンに海水浴に出かけたのだった。なまあたたかい雨がぽつり、ぽつりと落ち始め、テムズ川河口では、奇襲の始まりをつげる、あのなじみ深い銃声のような遠雷が聞こえていたのだが。「急がなけりゃならない」とTが言った。

サマーズが反抗した。「もう十分じゃねぇか? スロットマシンで遊べるように、10セントもらってきたんだ。これじゃまるで仕事だよ」「まだ始まったとさえ言えないんだ」Tは答えた。「床はまだ全部残ってるし、階段もだ。窓には手さえつけちゃいない。おまえだってみんなと同じように賛成したんだろ。この家をぶっ壊すんだ。終わるときには、なにも残ってちゃいけない」

まず一同は、一階の外壁につながる表面の床板に取りかかった。根太は剥き出しにしたまま放っておく。それからノコギリで根太を切り、残った部分が傾いて沈んでいくと、玄関ホールに退却した。手順がわかったので、二階の床を抜くのは、もっと簡単にいった。夕方になるころには、みんなすっかりハイになってしまって、はしゃぎながら巨大な空洞と化した家を見下ろしていた。危ないこともやったが、失敗もした。窓に気がついたときはすでに遅く、どうやっても手が届かない。「ちぇっ」といいながらジョーはペニー銅貨をひとつ、この水のない、巨大な井戸の瓦礫のたまった底に放り投げた。コインは音をたてながら割れたガラスの間を縫うように落ちていった。

「なんでオレたちはこんなこと始めちゃったんだろう」サマーズがいまさらながら驚いたようにいった。Tはもう下に降り、瓦礫を掘りおこして、外壁に沿って溝を作っている。「蛇口をひねるんだ。もう暗くなったからだれにも見つかりゃしないし、朝になったらそんなことはどうだってよくなる」水はみんながいた階段に達すると、床のない部屋に降り注いだ。

 そのとき裏でマイクの口笛が響いた。「まずいことが起きたんだ」とブラッキー。ドアの鍵をあけてやると、マイクのぜいぜいいう荒い息が聞こえた。

「おまわりか」とサマーズが聞く。
「しみったれじいさんだよ。帰ってくるんだ」マイクは得意そうに言った。「なんでだよ」Tが言った。「オレに言ったのに……」子どもだったことなどなかったTが、子どもらしい怒りに震えながら抵抗した。「卑怯だぞ」

「サウスエンドで降りたんだよ。そこから汽車で引き返してきたんだ。寒いし、雨は降り出すし、ダメだ、って」マイクは言葉を切ると、まじまじと水を見た。「すげぇ。こっちじゃ嵐だったんだね。屋根が漏ってるの?」

「どのくらいで帰ってくる?」
「5分ぐらい。オレ、母ちゃんほっぽって走ってきたから」
「引き上げようぜ」とサマーズがいった。「どっちにしろ十分やったじゃねぇか」

「冗談じゃない、まだダメだ。だれだってできるさ、こんなもの――」“こんなもの”とは、壁よりほかは何も残っていない、破壊されつくした空洞のような家のことだった。だが、壁は残っていた。外壁は損なわれていないのだ。内部なら、前よりも美しく作り直すことだってできる。「こんなもの」でも、また人の住む家となりうるのだ。Tは怒りにまかせて言った。「仕上げをしなくちゃ。帰っちゃダメだぞ。ちょっと考えさせてくれ」

「時間がない」だれかが言った。
「方法があるに決まってる。じゃなきゃここまでやれなかったはずだ……」

「もう十分やったよ」ブラッキーが言った。
「冗談じゃない。だれか表を見張っててくれ」
「これ以上はムリだ」
「裏から入ってくるかもしれない」
「じゃ、裏もだ」Tの言葉は嘆願の色を帯びてきた。「ちょっと時間をくれよ。なんとかするからさ。オレが絶対になんとかするから」Tの態度から決然としたところが消えていくのにあわせて権威も失われていく。もはやTはひとりのメンバーでしかなかった。「たのむよ」

「たのむよ」Tの真似をしたサマーズは、ふいに、Tに致命傷を与える決定的な名前を口にした。「お家へお帰り、トレイヴァー坊ちゃん」

 Tは瓦礫を背に立っていた。まるでノックアウトされて朦朧となりながらロープにもたれるボクサーのように。揺らいですり抜けていく夢に、Tは言葉を失っている。そのときブラッキーが笑い出す隙をだれにも与えず、サマーズを押し戻した。「表はオレが見張るよ、T」そう言うと、玄関の鎧戸を用心しながら開けた。灰色に濡れた広場が目の前に広がり、水たまりは明かりを反射して光っていた。「だれかが来る、T、いや、じいさんじゃない。おまえの計画は決まったか」

「マイクに外へ出てトイレの近くに隠れろ、って言ってくれ。オレの口笛が聞こえたら、10数えて、叫ぶんだ」「なんて叫ぶ?」
「“助けてくれ”でもなんでもいい」

「マイク、聞こえたな」ブラッキーが言った。リーダーはふたたびブラッキーだった。鎧戸の隙間に目を走らせる。「T、じいさんが来たぞ」「急げ、マイク。トイレだ。ブラッキーはそこにいてくれ、みんなもだ。オレが呼ぶまで」

「おまえはどこに行くんだ、T」
「だいじょうぶだ。オレがなんとかする。さっきそう言っただろ」

(この項続く)