(承前)
くじ引きが始まったころに使われていた道具は、はるか昔になくなってしまっていた。いま丸椅子の上に乗っている黒い箱も、村一番の年寄り、ワーナーじいさんが生まれる前から使用されているものである。サマーズ氏は、箱は新しくした方がいいな、と村人たちに何度となく言ってきたのだが、この黒い箱に象徴される程度の伝統でも、ひっくり返そうとするものはいないのだった。というのも、現在の箱は以前の箱の一部を使ってできたものである、という言い伝えがあり、前の箱というのは、実に、ここに村を最初に築いた人々によって組み立てられたものだという。毎年くじが終わると、サマーズ氏は判で押したように新しい箱のことを口にしたが、だれも具体化しようとしないままに立ち消えになっていった。黒い箱は年々古びていき、いまでは真っ黒とさえいえない、一方がひどくささくれて地の木目が顕わになっているだけでなく、あちこち褪色したり、染みがついたりしているありさまだった。
マーティン氏と長男のバクスターは、サマーズ氏が用紙をすっかりかきまぜてしまうまで、丸椅子の上の黒い箱をしっかりとささえていた。儀式の中でも、忘れ去られたり、切り捨てられたりしてきた部分は数多くあったために、サマーズ氏も、何世代にも渡って用いられてきた木の札を、紙片で代用させることに成功していた。サマーズ氏の言によれば、木片は村が小さかったころなら大変結構なものであるが、現在のように人口も三百人を越し、さらに成長を続けているなかにあっては、黒い箱にもっと収まりやすいものに変える必要がある、というのである。くじの日の前夜、サマーズ氏とグレイヴス氏が作成した用紙は、箱の中に納められて、サマーズ石炭商会の金庫に保管される。そうやって朝、サマーズ氏が広場に出かける準備ができるまで、金庫の鍵はかかったままだ。くじの日の前後を除けば、場所を移しながら、しまいこまれている。ある年はグレイヴス氏の納屋、またある年は郵便局の地下、またある年は、マーティン食料品店の棚、という具合に。
サマーズ氏がくじ引きの開始を宣言するまでには、まだまだ手続きが必要だった。まず、リストが作成される。一族の長を記したもの、その一族に含まれる各家族の世帯主を記したもの、さらに各家族の成員を記したもの。それから郵便局長が、くじの審判員としてサマーズ氏を正式に任命する。以前はここで、くじの審判員が一種の朗詠をやっていたことを覚えている村人もいた。おざなりで調子はずれの詠唱が淀みなく続くのが、毎年正式なしきたりだったという。審判員はそれを読むというか吟じている間、そこに立ったままだったという者もおれば、審判員は人々の間を歩き回っていたという者もいたが、ともかく、ずいぶん前から、儀式のこの部分は省略されてきたのだった。むかしは出迎える言葉にも決まりごとがあって、くじを引くためにやってくるひとりひとりに、審判員はその呼びかけをおこなうことになっていたのだが、それもまた時とともに変わっていき、いまではやってくるひとに何か言さえすれば十分であると考えられるようになっていた。サマーズ氏はこうしたことすべてに長けていた。清潔な白いシャツにジーンズといういでたちで、片手を黒い箱に乗せて、グレイヴス氏とマーティン親子に向かって延々と話し続ける姿は、この儀式にふさわしく、重要な人物であるように見えた。
その長い話をやっとのことで切り上げたサマーズ氏が、集まった村人たちの方を向いたちょうどそのとき、ハッチンスン夫人が、広場に通じる道をバタバタと駆けてきた。セーターを肩にかけた格好で、会衆の後ろに滑り込む。「今日があの日だったってこと、すっかり忘れちゃってたわ」と、隣にいたドロクロア夫人に声をかけると、ふたりはそっと笑った。「父さんがいないから、また薪を積みに行ってるんだろうと思ってたんだけど、外を見たら子どもだっていないじゃないの、それで今日が27日だったってこと思いだして、いそいで走って来たのよ」エプロンで手を拭うハッチンスン夫人に、ドラクロア夫人が答える。「間に合ったわよ。あそこじゃまだまだ話のまっ最中だもの」
ハッチンスン夫人は首を伸ばして人混みを見渡し、夫と子どもたちが前の方に立っているのを見つけた。それじゃあね、とでもいうようにドラクロア夫人の腕を軽く叩き、なかに入っていく。ひとびとは快く道を空けてやり、「ほら、ハッチンスン、かみさんが来たぞ」「ビル、奥さんが間に合って良かったな」という二、三人の声も、人垣の向こうから聞こえてきた。ハッチンスン夫人が夫のところまでやって来るあいだ、ずっと待っていたサマーズ氏は楽しそうに声をかけた。「テシー、あんた抜きで始めなきゃならんかと思ってたぞ」にっこり笑ってハッチンスン夫人は言い返す。「このあたしに流しに皿を置きっぱなしにさせとくつもり、ジョー」低い笑い声が、元の場所に戻ろうとする会衆の間にさざ波のように拡がっていった。
(この項続く)
くじ引きが始まったころに使われていた道具は、はるか昔になくなってしまっていた。いま丸椅子の上に乗っている黒い箱も、村一番の年寄り、ワーナーじいさんが生まれる前から使用されているものである。サマーズ氏は、箱は新しくした方がいいな、と村人たちに何度となく言ってきたのだが、この黒い箱に象徴される程度の伝統でも、ひっくり返そうとするものはいないのだった。というのも、現在の箱は以前の箱の一部を使ってできたものである、という言い伝えがあり、前の箱というのは、実に、ここに村を最初に築いた人々によって組み立てられたものだという。毎年くじが終わると、サマーズ氏は判で押したように新しい箱のことを口にしたが、だれも具体化しようとしないままに立ち消えになっていった。黒い箱は年々古びていき、いまでは真っ黒とさえいえない、一方がひどくささくれて地の木目が顕わになっているだけでなく、あちこち褪色したり、染みがついたりしているありさまだった。
マーティン氏と長男のバクスターは、サマーズ氏が用紙をすっかりかきまぜてしまうまで、丸椅子の上の黒い箱をしっかりとささえていた。儀式の中でも、忘れ去られたり、切り捨てられたりしてきた部分は数多くあったために、サマーズ氏も、何世代にも渡って用いられてきた木の札を、紙片で代用させることに成功していた。サマーズ氏の言によれば、木片は村が小さかったころなら大変結構なものであるが、現在のように人口も三百人を越し、さらに成長を続けているなかにあっては、黒い箱にもっと収まりやすいものに変える必要がある、というのである。くじの日の前夜、サマーズ氏とグレイヴス氏が作成した用紙は、箱の中に納められて、サマーズ石炭商会の金庫に保管される。そうやって朝、サマーズ氏が広場に出かける準備ができるまで、金庫の鍵はかかったままだ。くじの日の前後を除けば、場所を移しながら、しまいこまれている。ある年はグレイヴス氏の納屋、またある年は郵便局の地下、またある年は、マーティン食料品店の棚、という具合に。
サマーズ氏がくじ引きの開始を宣言するまでには、まだまだ手続きが必要だった。まず、リストが作成される。一族の長を記したもの、その一族に含まれる各家族の世帯主を記したもの、さらに各家族の成員を記したもの。それから郵便局長が、くじの審判員としてサマーズ氏を正式に任命する。以前はここで、くじの審判員が一種の朗詠をやっていたことを覚えている村人もいた。おざなりで調子はずれの詠唱が淀みなく続くのが、毎年正式なしきたりだったという。審判員はそれを読むというか吟じている間、そこに立ったままだったという者もおれば、審判員は人々の間を歩き回っていたという者もいたが、ともかく、ずいぶん前から、儀式のこの部分は省略されてきたのだった。むかしは出迎える言葉にも決まりごとがあって、くじを引くためにやってくるひとりひとりに、審判員はその呼びかけをおこなうことになっていたのだが、それもまた時とともに変わっていき、いまではやってくるひとに何か言さえすれば十分であると考えられるようになっていた。サマーズ氏はこうしたことすべてに長けていた。清潔な白いシャツにジーンズといういでたちで、片手を黒い箱に乗せて、グレイヴス氏とマーティン親子に向かって延々と話し続ける姿は、この儀式にふさわしく、重要な人物であるように見えた。
その長い話をやっとのことで切り上げたサマーズ氏が、集まった村人たちの方を向いたちょうどそのとき、ハッチンスン夫人が、広場に通じる道をバタバタと駆けてきた。セーターを肩にかけた格好で、会衆の後ろに滑り込む。「今日があの日だったってこと、すっかり忘れちゃってたわ」と、隣にいたドロクロア夫人に声をかけると、ふたりはそっと笑った。「父さんがいないから、また薪を積みに行ってるんだろうと思ってたんだけど、外を見たら子どもだっていないじゃないの、それで今日が27日だったってこと思いだして、いそいで走って来たのよ」エプロンで手を拭うハッチンスン夫人に、ドラクロア夫人が答える。「間に合ったわよ。あそこじゃまだまだ話のまっ最中だもの」
ハッチンスン夫人は首を伸ばして人混みを見渡し、夫と子どもたちが前の方に立っているのを見つけた。それじゃあね、とでもいうようにドラクロア夫人の腕を軽く叩き、なかに入っていく。ひとびとは快く道を空けてやり、「ほら、ハッチンスン、かみさんが来たぞ」「ビル、奥さんが間に合って良かったな」という二、三人の声も、人垣の向こうから聞こえてきた。ハッチンスン夫人が夫のところまでやって来るあいだ、ずっと待っていたサマーズ氏は楽しそうに声をかけた。「テシー、あんた抜きで始めなきゃならんかと思ってたぞ」にっこり笑ってハッチンスン夫人は言い返す。「このあたしに流しに皿を置きっぱなしにさせとくつもり、ジョー」低い笑い声が、元の場所に戻ろうとする会衆の間にさざ波のように拡がっていった。
(この項続く)