陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

グレアム・グリーン 『破壊者』その2.

2004-10-26 18:30:20 | 翻訳
(承前)

「レンってだれだよ」
「セント・ポール寺院を建てた人だ」
「それがどうかしたってのかよ。ただのしみったれじいさんの家じゃねえか」

 しみったれじいさん――本名はトーマス――は、かつては建築者であり室内装飾家でもあった。その毀れかけの家に独りで暮らし、なんでもひとりでまかなっている。週に一度、パンや野菜をぶらさげて、ウォームズリー公園を横切る姿を目にすることができたし、駐車場で団員が遊んでいるのを、庭の塀の残骸の向こうからじっと見ていたことだってあった。

「トイレに行ったことがある」という団員がいた。だれもが知っていることだったが、爆撃以降、その家の配管のどこかが悪くなっていたにもかかわらず、しみったれじいさんはほんとうにしみったれで、地所に金なんか使わない。自分で室内装飾をやり直すのなら実費でできるが、配管工事は習っていないのだった。トイレは狭い庭のどん詰まりにある木造の小さな小屋で、ドアには星型の孔が開いていた。隣の家を木っ端微塵にし、三番地の窓枠を吹っ飛ばした爆風を、うまく免れたのだ。

 つぎの団とトーマス氏の遭遇は、さらに驚くべきものだった。ブラッキー、マイク、それに、とある理由からサマーズと名字で呼ばれている痩せた、肌の黄ばんだ団員が、市場から戻ってきたじいさんに広場ででくわしたのだ。トーマス氏が呼び止めて、ぼそぼそと話しかけた。「駐車場で遊んでいるグループの子らだろう?」
 
そうだよ、と言いそうになったマイクを、ブラッキーが止めた。リーダーたる者、責任がある。「だとしたら?」ブラッキーはどっちでもとれるような言い方をした。

「チョコレートがあるんだ」とトーマス氏がいう。「生憎、そういうものは好きじゃなくてな。ほら、これだ。みんなに行き渡るほどはなかろうとは思うんだが。間違いなくないだろうな」調子は暗いが、変に確信のこもった言葉が続いて、じいさんはスマーティを三箱手渡してくれた。

 団のみんなはしみったれじいさんの行為を理解しかねて騒ぎだし、なんとか納得のいく説明をつけようとした。「だれかが落としたのを拾ったのに決まってらぁ」という者。
「かっぱらったんだけど、びびっちゃったんだよ」と思いつくまま口にする者。

「ワイロだ」と言い出したのはサマーズ。「オレたちがボールを塀にぶつけるのをやめさせたいのさ」
「オレたちはワイロなんか取らねえってことを見せてやろう」ブラッキーがこういって、みんなは午前中いっぱいを犠牲にしてボール遊びをしたのだが、そんなことが楽しいほどねんねなのは、マイクだけだ。トーマス氏がどう思ったか、これっぽっちもうかがい知ることはできなかったのだった。


 その翌日、Tがみんなの度肝を抜いた。落ち合う時間に遅れたために、その日なすべき任務の決定は、T抜きでおこなわれていた。ブラッキーの提案により、団はふたりひと組に分散し、手当たり次第バスに乗って、油断している車掌の目を盗んで、何回無賃乗車できるか試すことになったのだ(作戦はごまかしのないよう、ふたりひと組で遂行される)。みんながパートナーを決めるくじを引いているとき、Tがあらわれた。

「どこへ行ってたんだ、T」とブラッキーが問いただした。「もう評決は終わった。規則は知ってるな」
「あそこへ行ってきた」まるで秘密の考えでも抱いているかのように、視線を落としたままだ。
「どこだよ」
「しみったれじいさんとこだ」マイクが口をあんぐりと開けかけ、すぐさま唇をぎゅっと閉ざした。カエルのことを思いだしたのだ。

「しみったれじいさんのところだって?」そこへ行ってはいけないという規則などはなかったが、ブラッキーは、こいつ、ヤバいことをやらかしたな、と思った。そうだったらいいんだが、と思いながら聞いてみる。「忍び込んだのか?」
「ベルを鳴らしたんだ」
「で、なんていったんだ?」
「家を見せてくれって」
「じいさんはどうした?」
「見せてくれた」
「なんかかっぱらったか?」
「いや」
「じゃ、なんでそんなことをしたんだよ」

 みんなが集まってきた。即席の法廷が開かれ、逸脱の検案について審議されようとでもいうかのように。Tはひとこと、「美しい家だった」とだれとも目をあわさずにうつむいたまま言うと、唇の片方をなめ、つぎに反対側をなめた。
「どういうことだよ、美しい家、ってのはよ」鼻先で笑いながら、ブラッキーが聞く。
「二百年もたった、コークスクリューみたいな形の階段がある。なにも階段を支えてないのに立ってるんだ」
「意味わかんねぇよ、なにも階段を支えてない、ってのがよ。宙に浮いてでもいるってのか」
「相反する力を利用してるんだって。しみったれじいさんが言ってた」
「ほかには」

「嵌木細工がしてあった」
「“青い猪亭”にあるようなやつか?」
「二百年前のものだ」
「しみったれじいさんは二百歳だってのか?」

不意にマイクが笑い出したが、すぐに静かになる。みんな、笑い事ではない気分だった。夏休みの初日に、Tが駐車場へふらりとやってきてから初めて、Tの地位が危機に瀕していた。Tの本名を、ほんの少しでも匂わすだけで、みんなはTをなぶり始めるだろう。

「なんでそんなことやった」ブラッキーがたずねた。ブラッキーは公平だったし、嫉妬深くもない。できるものならTをギャング団から追い出したくはなかった。「美しい」という言葉が気に入らなかった。そんなものは上流社会、ウォームズリー・コモン帝国座で見る、シルクハットと片眼鏡、ホーホー卿のパロディをやっている芸人の世界の言葉だ。ブラッキーは「親愛なるトレイヴァーくん、ごきげんよう」といって、地獄の番犬どもをけしかけたい衝動に駆られた。「忍び込んでみたいってんならなぁ」悲しげにそう言った。実際、それなら団の任務に十分、値しただろうに。

「ただ見るだけのほうが良かったんだ。いろんなことがわかったから」Tは、依然として自分の足下を見つめたまま、だれとも視線を合わそうとしないままだった。まるでひとと分かち合いたくない、あるいはそうするのが恥ずかしい夢に心を奪われているかのように。

「なにがわかったってんだ」
「しみったれじいさんは、明日とバンク・ホリデイの間中、家を空けるんだ」
ブラッキーはほっとした。「その日にやろうってんだな」「かっぱらいをやるんだな」と聞く者もあった。
ブラッキーは釘をさす。「かっぱらいはだめだ。忍び込むだけで上等だ、そうだろ? 裁判沙汰なんかとんでもねぇ」
「かっぱらいがしたいわけじゃない」Tが言った。「もっといい考えがあるんだ」

(この項続く)