陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

グレアム・グリーン 『破壊者』その6.

2004-10-30 18:20:20 | 翻訳


 しみったれじいさんは脚を引きずりながら、広場を渡ってきた。立ち止まって、靴についた泥を舗道の縁でこそげ落とす。家は汚したくない。爆弾跡地に一軒だけ黒々とそびえ立つ家は、間一髪、とじいさんは信じていたのだが、破壊を免れたのだ。爆風を受けても、ドアの上の欄間までが無事だった。どこかで口笛がした。しみったれじいさんは、厳しい目であたりを見回した。口笛というのは、油断がならん。子どもが叫んでいた。どうも自分の庭から聞こえてくるようだ。そのとき少年が、駐車場から道路へ走ってきた。「トーマスさん」と呼び止められた。「トーマスさんですね」

「どうしたんだ」
「ほんとにごめんなさい、トーマスさん。友だちのひとりが用を足したくなって、それで、ぼくたち、おじさんはお気になさらないだろうと思ったんです。そしたら、そいつ、外へ出られなくなって」「なにを言ってるんだ」
「トイレから出られなくなっちゃったんです」
「いったい何の権利があって……。おまえ、前に会ったことがあるな」「お宅を見せてもらいました」
「そうだった、そうだった。だからといって、おまえに権利は……」
「急いでください、トーマスさん。窒息しちゃう」
「ばかな。窒息するわけがない。カバンを中へ置いてくるまで待ってなさい」
「カバンはぼくが持ってあげます」
「よせ。自分で持つ」
「トーマスさん、こっちです」

「そっちから庭へは入れんぞ。家を抜けて行かにゃ」
「だいじょうぶ、トーマスさん。ぼくたち、よくやってるんです」
「よくやってるだって?」あきれてものがいえないな、と思いながらも、興味を引かれて少年のあとをついていく。「いつから、どういう権利があって……」

「ここ、わかります? 塀が低くなってるんです」
「自分の家の庭に入るのに、塀を乗り越えるなんて冗談じゃない。馬鹿げとる」

「ぼくたち、こうやってるんです。ここに足をかけて、もうひとつの足はこっち。ほらね」少年が上から覗きこんだかと思うと、手が伸びて、あっという間にカバンをつかんで塀の向こうに降ろしてしまった。

「カバンを返すんだ」トイレからは男の子のあげる悲鳴がしきりに聞こえてくる。「警察を呼ぶぞ」
「カバンならだいじょうぶ、トーマスさん。ほら、片っぽの足はそこ。右です。で、ちょっと身体を持ち上げて、こんどは左」トーマス氏は塀を乗り越えて自分の庭に入った。「はい、カバンです、トーマスさん」

「塀を高くするぞ。おまえらのような子どもたちが、塀を乗り越えて便所を使わないようにな」庭の小道でつまずきそうになったトーマス氏を、少年が肘をつかんで支えた。反射的に「おお、すまないね、坊や」とつぶやく。だれかが暗闇の向こうでまた叫んだ。「いま行ってやるからな」トーマス氏も大きな声で答える。そうしてかたわらの少年に言った。「わしは分からず屋じゃない。昔はわしだって子どもだったんだ。ものごとをきちんとするんだったらな。土曜日の午前中にここで遊んだってかまやしない。わしも人に来てほしいことだってあるんだ。きちんとしてくれたら、の話だが。だれかひとり、遊びにいってもいいですか、と聞きに来て、わしが、いいよ、って言ったらな。もちろん、ダメだ、と言うときもあるだろう。そんな気分じゃないときはな。そうやって遊びに来たときは、玄関から入って、帰るときは裏口からだ。庭の塀は乗り越えるな」

「あの子を出してやって、トーマスさん」
「便所から出られなくなっても、危ないことはないさ」トーマス氏はそう言って、よろけながらのろのろと庭を進んだ。「このリューマチが。バンク・ホリデイになると出てくるんだ。気をつけなけりゃならん。ここはグラグラする石だらけだ。手を貸してくれ。昨日の星占いはなんと出ておったと思う?『週の前半は、いかなる取引も自重せよ。崩壊の危険あり』ときたもんだ。あれはこの道のことかもしれん。占いなんてものは、たとえ話やどっちにでもとれる言い方ばかりだからな」便所の前で立ち止まると、なかに声をかけた。「どうしたんだ?」返事はない。

「たぶん気を失っちゃったんだ」
「まさかここでそんなことがあるわけがない。さぁ、出ておいで」力いっぱい引いたドアがあまりに簡単に開いたので、勢い余ったトーマス氏はひっくり返りそうになった。身体をささえてくれた手が、どん、と背中を押した。壁にしたたか頭を打ちつけて、どすんとそのまますわりこむ。かばんが足にぶつかった。手がスッと伸びてきて、錠前から鍵をとりあげ、ドアをバタンと閉める。「出してくれ」と言ったが、外で鍵がかかる音がした。「これが崩壊だ」と考ると、身体が震えだし、わけが分からなくなり、ひどく年取ってしまったような気がした。
 星型のドアの孔から優しい声が聞こえてきた。「心配しないで、トーマスさん。ぼくたちはあなたに危害を加えるつもりはないんです。おとなしくそこにいてくれるんだったら」

 トーマス氏は頭を抱えて思案した。駐車場にはトラックが一台あっただけだし、まずまちがいなく朝になるまで運転手はこないだろう。ここで声をあげても、表通りからは聞こえようがないし、裏の路地は絶えて人通りがない。通りかかる人はみな家路を急いでいるだろうから、酔っぱらいの叫び声とおぼしきもののために、立ち止まることもあるまい。「助けてくれ」と怒鳴ってみたところで、ひとけのないバンク・ホリディの夜、勇をふるって探してくれる人があるだろうか。トーマス氏は便器の上に腰を下ろして、甲羅を経た者の智慧をふりしぼろうとした。

 しばらくすると、静まりかえったなかに物音が聞こえてくるような気がした。――家の方からかすかな音がする。立ち上がって通気口から外をのぞいた――鎧戸の一枚に裂け目ができていて、そこから光が洩れている。電灯の明かりではない、ゆらめく光、ろうそくの炎のような光だ。ハンマーで叩くような音、ノコギリをひくような音、何かを削るような音。強盗団だ――おそらくやつらはあの子を偵察に使ったのだ。だがなぜ強盗団が、いよいよ大工仕事にしか思えない、あんな音を立てて何をこっそりとやっているのか。トーマス氏はためしに叫んでみたが、返事をするものはなかった。その声は敵の耳にさえ届かなかっただろう。

(次回最終回)