陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

グレアム・グリーン 『破壊者』その7.

2004-10-31 18:20:25 | 翻訳
4.
 
 マイクが寝に帰ったほかは、みんながその場に残った。だれがリーダーかなど、もうどうでもいいことだった。釘やノミ、ドライバー、とにかく先が尖って突き刺せるものを手に、内壁に沿って移動しながら、レンガの合わせ目をかきとっていく。最初はやる位置が高すぎたのだが、ブラッキーが偶然、防湿層に行き当たり、そのすぐ上の接合部を削って弱くしておけば、作業が半減することがわかった。時間ばかりかかる退屈でおもしろみのない仕事だったが、とうとうそれも終わった。骨抜きにされた家を、接合層とレンガをつなぐ数センチの漆喰が、きわどく支えていた。

 一番危ない仕事、外の爆弾跡地の外れでやる作業がまだ残っている。サマーズが通りの見張りに出た。便器に腰掛けていたトーマス氏の耳にも、いまやはっきりノコギリをつかう音が届く。家から聞こえてくる音ではなかったので、トーマス氏は多少気が休まった。心配することはない。ほかの音だって、気にするほどのこともなかったのだろう。

 孔から声が話しかけてきた。「トーマスさん」「わしを出すんだ」トーマス氏はせいぜい厳しい声を出す。
「毛布をもってきました」長い灰色のソーセージのようなものが押し込まれ、ぐるぐる巻きのまま、トーマス氏の頭の上に落ちてきた。

「個人的に恨みがあるとかいうんじゃないんです。一晩、気持ちよく過ごしてください」
「一晩だって」あっけにとられたトーマス氏は、鸚鵡返しに言うだけだった。
「これ、取ってください。パンです――バター、つけといてあげました。あと、ソーセージ・ロールも。おなかをすかせてほしくないんです、トーマスさん」
 トーマス氏は必死で嘆願した。「冗談は冗談にとどめておこうや、な、坊や。外に出してくれりゃ、わしはなんにも言わん。リューマチが出てきてな。ゆっくり寝なくてはならんのだ」

「ゆっくり寝るなんてムリですよ、あなたの家じゃムリだ。いまとなっちゃ」
「おい、どういうことだ」だが足音は遠ざかってしまった。夜の静けさだけがあとに残る。ノコギリの音も、もう聞こえない。トーマス氏はもう一度叫ぼうとしたが、あまりの静けさにひるみ、うちのめされたような気がした。遠くでひとつ、ホーというふくろうの啼き声がしたが、やがてその声も静寂の世界に音もなく羽ばたいていった。


 翌朝七時、運転手がトラックを取りに来た。座席にあがってエンジンをかけようとする。遠くで人がわめいているのを漠然と感じはしたものの、意識には上ってこなかった。やっとエンジンがかかったので、トラックをバックさせてトーマス氏の家を支える太いつっかえ棒のところまで下げる。そうすると切り返しなしで直接通りに出られるのだ。トラックは前進したが、出し抜けに後ろから引っ張られでもしたように、一瞬止まった。ふたたび前進を始めたとき、ガラガラドッシャーンという破壊音がとどろき渡った。レンガがバラバラと降ってきて、仰天する運転手の目の前で跳ね返り、運転席の屋根に石がぶつかる音がした。運転手は急ブレーキをかけた。外へ出てみると、あたりの風景が突如、一変している。駐車場の脇の家が忽然と消え失せ、瓦礫の山があるばかり。後部に回って、トラックに壊れた箇所はないか調べにいくと、ロープが結わえつけてある。反対側の端は、家のつっかえ棒にまきついていた。

 運転手はまただれかの叫び声を聞いたように思った。声は木造の小屋、レンガが積もる廃墟になり果てた家の脇の小屋から聞こえてくる。運転手はこなごなに砕けた壁の山を乗り越えて、小屋の鍵を開けた。トーマス氏が便所から出てきた。パンくずのついた灰色の毛布を身体に巻きつけている。トーマス氏はべしょべしょと泣いていた。「わしの家が。わしの家はどこへ行った」

「さぁて、どこだかねぇ」浴槽の一部と、かつては鏡台だったものの残骸がふと目に留まり、運転手は笑い出した。きれいさっぱり、どこにも、なにひとつとして残ってはいないのだ。

「よくも笑えるな」トーマス氏は言った。「わしの家だったんだぞ」

「すまないな」運転手は笑うまいとあっぱれな努力をしたのだが、突然トラックが止まってレンガが雨あられと降り注いだことを思いだすと、こみあげてくる笑いをどうすることもできない。さっきまで家が建っていたのだ。爆弾跡地にシルクハットの紳士のようにもったいをつけて。それがどうだ、ドッシャーン、ガラガラ、で、なにひとつ残っちゃいない――なにひとつ。「すまない。だけど笑っちまうよ、トーマスさん。あんたに恨みがあるわけじゃないんだが、どうしたっておかしくって」


――了――