「「写真家」の透視力は、《見る》ことによってではなく、その場にいることによって成り立つ」
ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』(花輪光訳 みすず書房)
写真に興味を持つようになったのは、撮り手によって写真があまりにも違うことに気がついたときからだ。
風景でも物でもそうなのだけれど、とりわけ人物写真ではその違いが顕著になる。
同じ人物を撮ったとは思えないことさえあった。
試しに友だちとカメラを交換して撮ってみた。
結果はおなじだった。
私のカメラで撮った友だちの写真は、あくまでも彼女の写真であり、彼女のカメラで撮った私の写真は、どうやっても私が撮ったものにしか見えなかった。
撮り手によって、被写体は姿を変えるのだ。
それはどういうことなのだろう。
写真というのは、カメラが、言い換えれば機械が撮っているのではないのか?
撮り手というのは、シャッターを押しているだけなのではないのか?
ひとの「まなざし」というのは、そこまで力を持つものなのだろうか。
そのときから、わたしは写真を「何が写っているか」ではなく、「だれが写したか」見るようになった。
アーバスの写真に出会ったのは、おそらく映画「シャイニング」が最初だろう(ちなみにキューブリックは、カメラマン時代アーバスの教えを受けた)。
http://masters-of-photography.com/A/arbus/arbus_twins_full.html
耳について離れないキイキイという音を立てて疾走する三輪車と一緒に、極端なローアングルから見上げるホテルの室内も、高速で移動していく。
そして瞬間的に挿入される双子の写真。
アーバスの写真は、現実の裂け目からほんの少し覗いた異世界、「こっちにおいで」と手招きする少女たちの姿だった。
キングの原作では、ダニーが見るのは壁に飛び散った血糊や肉片のイメージだ。
けれどもアーバスの写真は、私が想像しうるどんな「血糊や肉片」よりも、リアルで、徹底してリアルであるがゆえに、怖かった。
わたしはアーバスの写真について論じることができるほど、写真に詳しいわけではない。
けれども、本を読むことはできる。
アーバスについて書かれた、これまでのところ唯一の評伝、パトリシア・ボズワース『炎のごとく 写真家ダイアン・アーバス』(名谷一郎訳 文藝春秋)を読みながら、アーバスについて考えてみたい。
ある程度の知識があるひとなら、アーバスが四十代で自殺したことを知っているだろう。
とくにアーバスの写真は、扱った題材が題材だけに、写真から「死」の臭いを感じとってしまうのは、不可避であるのかもしれない。
このような写真を撮っていれば自殺してしまうのも仕方がないね、というように。
けれども、そのような「物語」に当てはめて彼女の写真を見ようとする限り、彼女の「まなざし」はすり抜けていってしまう。
彼女の生き方を見ながら、とりわけ、その言葉を追いながら、彼女の「まなざし」を理解したいと思う。
「写真そのものはつねに目に見えない。人が見るのは指向対象(被写体)であって、写真そのものではないのである」(ロラン・バルト 引用同)
アーバスの写真はこのサイトで代表的なものを見ることができます。
http://masters-of-photography.com/A/arbus/arbus.html
(この項続く)