以上がシャーリー・ジャクスンの『くじ』の全文である。
実際これはアメリカで非常に有名な短編のひとつで、数多くのアンソロジーに(たとえばフォークナーの『エミリーに薔薇を』や、ポーの『告げ口心臓』、O.ヘンリーの『賢者の贈り物』などと一緒に)収められている。
アメリカではそういう扱いを受けている作品であることを理解してほしい。
初出は1948年、雑誌「ニューヨーカー」。
『くじ』が掲載されるや、「これ以上『ニューヨーカー』を講読したくない」という何百通もの手紙が編集部に届いた、というエピソードを持つ。
いまよりはるかに「刺激」というものに敏感だった当時の人々に、どれほどのショックを与えたかは想像に難くない。
噴出する「なんのためにこんな作品を書いたのか」とか「このような儀式をおこなっているような村が、現実に存在するか」などという質問に対して、
「ジャクスンは『私はただ物語を書いただけ』と譲らなかった」(若島正 『乱視読者の英米短編講義』研究社)のだそうだ。
なるほど。
ただ物語を書いただけ、か。
こういうオチのある、構成のくっきりした短編は、いまではいささか時代遅れになった感はあるけれど、ひさしぶりに自分の訳をチェックするために読み返してみて、うまい作りだなーと改めて感じ入ってしまった。
この作品には細かい仕掛けがいっぱいある。
たとえばテシー・ハッチンスンが犠牲者(といっていいだろう)に選ばれるのは、実は偶然でもなんでもなく、登場してきた時から暗示されている。
テシーは遅刻してくる。この重要なくじの日を、「忘れていた」と言うのだ。
くじの審判役であるサマーズ氏(この村で最大の権力者であることが暗示されている)が遅刻を咎めたのに対しても、平気で口応えする。
あきらかに男中心の社会であるこの村のなかで(テシー以外の女性は、みなMrs.~と名前を持たない)、男性の立場を揶揄し(「あんたの出番だよ」)、嫁いでいった娘の家族もくじに参加させろと言う。
この村の調和を乱す存在であることが、きわめて巧妙に滑り込ませてある。
テシー自身が決して感情移入しやすい人物ではないために、わたしたちは最後近くの場面では、小さな子どもやかわいい女の子が選ばれなくて良かった、とさえ思っている(なんとなく良くないことのようだけど、それにしても何に選ばれるんだろう……と思いながら)。
けれども、そうした感情に目を眩ませられず、科学者のような態度で(!)作品を細かく見ていくと、テシー以外が犠牲者に選ばれることはあり得ないのだ。
彼女はこの村の秩序を脅かす存在なのだから。
それ以外にも、だれが当たりを引いたんだろう、とみんなが探す場面で出てくる「ダンバーか」「ワトソンか」という名前にも意味がある。
ダンバー家は当主が骨折してくじに参加できない。ワトソンは当主が不在。
この「くじ」は、コミュニティの周縁部分から犠牲者を選び出すものなのだ。
それゆえに、七十七回も参加して、一度も選ばれなかったワーナーじいさんは、そのことを誇りに思い、また、サマーズ氏を批判するようなことを口に出しても許される(だが、つぎの年はどうだろう?)
実に巧妙に織り上げられているため、作者の仕掛けを意識することもなく、読み手は作品の中に溶け込むことができる。
だれもがこう思うはずだ。
テシー・ハッチンスンはこのあとどうなったんだろう。
なんのための儀式、なんのためのくじなんだろう。
疑問は、いつまでも心にのこる。
だが、これこそまさに作者の思うつぼではないか!
わたしたちはまんまとジャクスンにしてやられたのだ。
若島はこのように続けている。
「ただの物語、というのがどんな自作に対してもジャクスンが使う言葉であり、読者はその言葉を真に受ける必要はない(実際、精神科医の診察を受けていたジャクスンにとって、執筆行為が一種の自己治療になっていたという側面は確実にあり、「ただの物語」としてすまされるような問題ではなかったはずだ)。しかし、ジャクスンのおもしろさはその「ただの物語」の危うさにある。日常と非日常、平凡と非凡の紙一重のはざまで、彼女の作品はきわどく宙吊りになっている」
この「日常と非日常のはざま」というのは、確かにジャクスンの作品全部を貫くもので、この『くじ』や『山荘綺談』(ハヤカワ文庫)ばかりでなく、「スラップスティック式育児法」とサブタイトルがついている、ドメスティックコメディの風を装った『野蛮人との生活』(ハヤカワ文庫)にも十分に現れている。
最初に読んだときには、ケラケラ笑いながら読んだのだが(たぶん16歳ぐらい)、もう少し大人になって読み返してみれば、しだいしだいにずれていく感じ、日常から徐々に滑り落ちていく感じに頭がクラクラし、まえは一体どこを読んでたんだろう、と思ってしまった。
ところでヘミングウェイは『くじ』を評価していなかった、というのを、リリアン・ロスが「ニューヨーカー」に書いていたのを読んだ記憶がある。なんとなくわかるような気もして、すっかり忘れてしまっている正確な内容を求めて、今回探したのだけれど、どうやっても見つからない。そのうち見つかって、かつ、当方に暇があったら訳してみるかもしれないので、あまり期待しないで待っててください。
本は、うーん、出るかなぁ。
ともかく、ロスはおもしろいよ。邦訳は『「ニューヨーカー」とわたし』(古屋美登里訳 新潮社)と『パパがニューヨークにやってきた』(青山南訳 マガジンハウス社)が出ています。
あとの方は「ニューヨーカー」の記事一本を一冊の本にしたものなんだけれど、“パパ”はもちろん、ヘミングウェイね。これまた「ニューヨーカー」で賛否両論巻き起こったんだけど、この話はまたいつか。
あ、良かったら、読んだ感想、聞かせてください。
(この項終わり)
実際これはアメリカで非常に有名な短編のひとつで、数多くのアンソロジーに(たとえばフォークナーの『エミリーに薔薇を』や、ポーの『告げ口心臓』、O.ヘンリーの『賢者の贈り物』などと一緒に)収められている。
アメリカではそういう扱いを受けている作品であることを理解してほしい。
初出は1948年、雑誌「ニューヨーカー」。
『くじ』が掲載されるや、「これ以上『ニューヨーカー』を講読したくない」という何百通もの手紙が編集部に届いた、というエピソードを持つ。
いまよりはるかに「刺激」というものに敏感だった当時の人々に、どれほどのショックを与えたかは想像に難くない。
噴出する「なんのためにこんな作品を書いたのか」とか「このような儀式をおこなっているような村が、現実に存在するか」などという質問に対して、
「ジャクスンは『私はただ物語を書いただけ』と譲らなかった」(若島正 『乱視読者の英米短編講義』研究社)のだそうだ。
なるほど。
ただ物語を書いただけ、か。
こういうオチのある、構成のくっきりした短編は、いまではいささか時代遅れになった感はあるけれど、ひさしぶりに自分の訳をチェックするために読み返してみて、うまい作りだなーと改めて感じ入ってしまった。
この作品には細かい仕掛けがいっぱいある。
たとえばテシー・ハッチンスンが犠牲者(といっていいだろう)に選ばれるのは、実は偶然でもなんでもなく、登場してきた時から暗示されている。
テシーは遅刻してくる。この重要なくじの日を、「忘れていた」と言うのだ。
くじの審判役であるサマーズ氏(この村で最大の権力者であることが暗示されている)が遅刻を咎めたのに対しても、平気で口応えする。
あきらかに男中心の社会であるこの村のなかで(テシー以外の女性は、みなMrs.~と名前を持たない)、男性の立場を揶揄し(「あんたの出番だよ」)、嫁いでいった娘の家族もくじに参加させろと言う。
この村の調和を乱す存在であることが、きわめて巧妙に滑り込ませてある。
テシー自身が決して感情移入しやすい人物ではないために、わたしたちは最後近くの場面では、小さな子どもやかわいい女の子が選ばれなくて良かった、とさえ思っている(なんとなく良くないことのようだけど、それにしても何に選ばれるんだろう……と思いながら)。
けれども、そうした感情に目を眩ませられず、科学者のような態度で(!)作品を細かく見ていくと、テシー以外が犠牲者に選ばれることはあり得ないのだ。
彼女はこの村の秩序を脅かす存在なのだから。
それ以外にも、だれが当たりを引いたんだろう、とみんなが探す場面で出てくる「ダンバーか」「ワトソンか」という名前にも意味がある。
ダンバー家は当主が骨折してくじに参加できない。ワトソンは当主が不在。
この「くじ」は、コミュニティの周縁部分から犠牲者を選び出すものなのだ。
それゆえに、七十七回も参加して、一度も選ばれなかったワーナーじいさんは、そのことを誇りに思い、また、サマーズ氏を批判するようなことを口に出しても許される(だが、つぎの年はどうだろう?)
実に巧妙に織り上げられているため、作者の仕掛けを意識することもなく、読み手は作品の中に溶け込むことができる。
だれもがこう思うはずだ。
テシー・ハッチンスンはこのあとどうなったんだろう。
なんのための儀式、なんのためのくじなんだろう。
疑問は、いつまでも心にのこる。
だが、これこそまさに作者の思うつぼではないか!
わたしたちはまんまとジャクスンにしてやられたのだ。
若島はこのように続けている。
「ただの物語、というのがどんな自作に対してもジャクスンが使う言葉であり、読者はその言葉を真に受ける必要はない(実際、精神科医の診察を受けていたジャクスンにとって、執筆行為が一種の自己治療になっていたという側面は確実にあり、「ただの物語」としてすまされるような問題ではなかったはずだ)。しかし、ジャクスンのおもしろさはその「ただの物語」の危うさにある。日常と非日常、平凡と非凡の紙一重のはざまで、彼女の作品はきわどく宙吊りになっている」
この「日常と非日常のはざま」というのは、確かにジャクスンの作品全部を貫くもので、この『くじ』や『山荘綺談』(ハヤカワ文庫)ばかりでなく、「スラップスティック式育児法」とサブタイトルがついている、ドメスティックコメディの風を装った『野蛮人との生活』(ハヤカワ文庫)にも十分に現れている。
最初に読んだときには、ケラケラ笑いながら読んだのだが(たぶん16歳ぐらい)、もう少し大人になって読み返してみれば、しだいしだいにずれていく感じ、日常から徐々に滑り落ちていく感じに頭がクラクラし、まえは一体どこを読んでたんだろう、と思ってしまった。
ところでヘミングウェイは『くじ』を評価していなかった、というのを、リリアン・ロスが「ニューヨーカー」に書いていたのを読んだ記憶がある。なんとなくわかるような気もして、すっかり忘れてしまっている正確な内容を求めて、今回探したのだけれど、どうやっても見つからない。そのうち見つかって、かつ、当方に暇があったら訳してみるかもしれないので、あまり期待しないで待っててください。
本は、うーん、出るかなぁ。
ともかく、ロスはおもしろいよ。邦訳は『「ニューヨーカー」とわたし』(古屋美登里訳 新潮社)と『パパがニューヨークにやってきた』(青山南訳 マガジンハウス社)が出ています。
あとの方は「ニューヨーカー」の記事一本を一冊の本にしたものなんだけれど、“パパ”はもちろん、ヘミングウェイね。これまた「ニューヨーカー」で賛否両論巻き起こったんだけど、この話はまたいつか。
あ、良かったら、読んだ感想、聞かせてください。
(この項終わり)