のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は宗滴(そうてき)の名前が有名な、越前は朝倉家の英雄、「朝倉教景(あさくらのりかげ)」です。
前回は朝倉家の説明で終わってしまいました。
ちなみに、系図を書いたりしましたが、見る本によっては違ってましたね。
…鵜呑みで信用しないように(笑)
さて、今回からが本編です。
■文明九年(1477) [宗滴誕生]
「朝倉宗滴」こと教景は七代「英林孝景」の末子として誕生しました。
名前から察するに、関東へ出陣して「足利持氏」を、結城合戦では「結城氏朝」を討って活躍した、五代「教景」にあやかったものではないか、と思います。
わかんないけど。
兄の八代「氏景」とは、なんと二十八歳という年齢差でした。
もはや親子ですね。
ちなみに、宗滴は父「英林孝景」四十九歳の時の子で、死去の際はまだ四歳だったのです。
切れ者で下克上に成功した父「英林孝景」の後を継いだ八代「朝倉氏景」
美濃・守護代「斎藤妙純」の調停を受け入れ、守護職を名目だけ主家にあたる「斯波義廉」の子に継がせます。
また「平泉寺」「豊原寺」など国内の仏教勢力と結んでその勢力を増強。
こうして、いまだ根強く抵抗する旧勢力らを抑え、越前国の実質的な支配を強めることに成功しています。
しかし、そんな氏景も文明十八年(1486)に三十六歳で死去。
嫡男「朝倉貞景」が後を継ぐのです。
この頃、宗滴はようやく九歳。
■文亀三年(1503) [朝倉家の内紛]
長々説明してきましたが、宗滴の名が歴史の表舞台に登場するのはこの時です。
二十六歳となっていた宗滴。
おそらく、甥・貞景に従って、各地の合戦にて経験を積んでいたと思われます。
そんな宗滴の兄(※英林孝景の三男)には「朝倉景総(かげふさ)」という困った人がおりました。
景総は側室の子であったため、後から生まれた正妻の子教景(四男)の下座に置かれてしまうのです。
これを不服として、四男・教景を殺害してしまいます。この事件はどうにか許されるものの、結局は居づらくなったのか出奔し、京の管領家「細川政元」に仕えています。
一族の問題児ですね。
この景総は八代「朝倉氏景」の危機でも旧勢力側につくなど、度々敵意を露にしておりました。
さらにもう一人。
「英林孝景」の弟には、小天狗と言われた勇士「朝倉景冬」いました。
その父の後を継いだ子の「朝倉景豊」は、敦賀郡を領する主力部隊の一人です。この人の正妻が、なんと「朝倉景総」の娘だったんですね。
嫌な予感がするでしょう?
さらに、景豊の姉妹は宗滴ほか、あちこちの朝倉一族に嫁いでいたのです。
…これを見逃す景総ではありません。
「朝倉景総」は敦賀郡に勢力を持つ「朝倉景豊」、宗滴を含めた一族を誘い、主家に対して謀反を持ちかけるのです。
景豊の妹を妻としていた宗滴もこちらの計画に呼び出されていました。
武田家にて兄「飯富虎昌」の謀反計画を弟「山県昌景」が「武田晴信」へ密告。織田家では弟「織田信行」の謀反を「柴田勝家」が「織田信長」へ密告するなどの例があるように、主家を重んじる宗滴はこれを直ちに当主「朝倉貞景」へ告げるのです。
驚いた貞景はすぐさま数千の軍勢を率いて、景豊の敦賀城を包囲。
救出に向かった景総の到着を待たずに落城、自刃するのです。
この功によって、宗滴は敦賀を領する朝倉勢の主戦力となるのでした。
なお翌年、侵攻してきた「朝倉景総」は迎え撃った宗滴によって敗退しています。
この一件によって、宗滴の名は大いに高まることとなるのでした。
⇒つづく 次回は「混乱の加賀と宗滴さま」
[関連記事]
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[1 2 3 4 5 6]
⇒ 海道一の弓取り・今川義元 [1 2 3 4 5 6 7 8]
⇒ 美濃の蝮 「斎藤道三」 (1) (2) (3) (4)
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本日は宗滴(そうてき)の名前が有名な、越前は朝倉家の英雄、「朝倉教景(あさくらのりかげ)」です。
前回は朝倉家の説明で終わってしまいました。
ちなみに、系図を書いたりしましたが、見る本によっては違ってましたね。
…鵜呑みで信用しないように(笑)
さて、今回からが本編です。
■文明九年(1477) [宗滴誕生]
「朝倉宗滴」こと教景は七代「英林孝景」の末子として誕生しました。
名前から察するに、関東へ出陣して「足利持氏」を、結城合戦では「結城氏朝」を討って活躍した、五代「教景」にあやかったものではないか、と思います。
わかんないけど。
兄の八代「氏景」とは、なんと二十八歳という年齢差でした。
もはや親子ですね。
ちなみに、宗滴は父「英林孝景」四十九歳の時の子で、死去の際はまだ四歳だったのです。
切れ者で下克上に成功した父「英林孝景」の後を継いだ八代「朝倉氏景」
美濃・守護代「斎藤妙純」の調停を受け入れ、守護職を名目だけ主家にあたる「斯波義廉」の子に継がせます。
また「平泉寺」「豊原寺」など国内の仏教勢力と結んでその勢力を増強。
こうして、いまだ根強く抵抗する旧勢力らを抑え、越前国の実質的な支配を強めることに成功しています。
しかし、そんな氏景も文明十八年(1486)に三十六歳で死去。
嫡男「朝倉貞景」が後を継ぐのです。
この頃、宗滴はようやく九歳。
■文亀三年(1503) [朝倉家の内紛]
長々説明してきましたが、宗滴の名が歴史の表舞台に登場するのはこの時です。
二十六歳となっていた宗滴。
おそらく、甥・貞景に従って、各地の合戦にて経験を積んでいたと思われます。
そんな宗滴の兄(※英林孝景の三男)には「朝倉景総(かげふさ)」という困った人がおりました。
景総は側室の子であったため、後から生まれた正妻の子教景(四男)の下座に置かれてしまうのです。
これを不服として、四男・教景を殺害してしまいます。この事件はどうにか許されるものの、結局は居づらくなったのか出奔し、京の管領家「細川政元」に仕えています。
一族の問題児ですね。
この景総は八代「朝倉氏景」の危機でも旧勢力側につくなど、度々敵意を露にしておりました。
さらにもう一人。
「英林孝景」の弟には、小天狗と言われた勇士「朝倉景冬」いました。
その父の後を継いだ子の「朝倉景豊」は、敦賀郡を領する主力部隊の一人です。この人の正妻が、なんと「朝倉景総」の娘だったんですね。
嫌な予感がするでしょう?
さらに、景豊の姉妹は宗滴ほか、あちこちの朝倉一族に嫁いでいたのです。
…これを見逃す景総ではありません。
「朝倉景総」は敦賀郡に勢力を持つ「朝倉景豊」、宗滴を含めた一族を誘い、主家に対して謀反を持ちかけるのです。
景豊の妹を妻としていた宗滴もこちらの計画に呼び出されていました。
武田家にて兄「飯富虎昌」の謀反計画を弟「山県昌景」が「武田晴信」へ密告。織田家では弟「織田信行」の謀反を「柴田勝家」が「織田信長」へ密告するなどの例があるように、主家を重んじる宗滴はこれを直ちに当主「朝倉貞景」へ告げるのです。
驚いた貞景はすぐさま数千の軍勢を率いて、景豊の敦賀城を包囲。
救出に向かった景総の到着を待たずに落城、自刃するのです。
この功によって、宗滴は敦賀を領する朝倉勢の主戦力となるのでした。
なお翌年、侵攻してきた「朝倉景総」は迎え撃った宗滴によって敗退しています。
この一件によって、宗滴の名は大いに高まることとなるのでした。
⇒つづく 次回は「混乱の加賀と宗滴さま」
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