『神も仏も大好きな日本人』(ちくま新書)から引用します。
…… 伊勢神宮のことにふれたが、そこで紹介した参詣曼荼羅や旅行記には、伊勢参りに訪れた人たちの姿も描かれている。その人たちが、いったいどのような参拝の仕方をしていたかを見てみると、皆、合掌している。神社の社殿の前であろうと、寺や仏堂の前だろうと、まったく同じで、柏手を打っているような人の姿はまったく見かけない。
今日神社での正式な参拝の仕方とされているものは、明治になってから定められたものだ。したがって、近世までは、柏手を打つやり方は存在しなかった。多くの人たちは、はるか昔から日本人は神社の前で柏手を打ってきたと考えているかもしれないが、それは事実ではない。今のやり方は、わずか140年程度の歴史しかもっていない比較的新しいものなのだ。
神仏習合の時代には、神道と仏教が複雑に混じり合い、両者を区別することはできなかった。仏と神とを同時に祀っているようなところがほとんどである以上、その前では合掌するという統一されたやり方をとるしかなかった。神道なのか、仏教なのかをはっきりと区別して、それぞれ参拝の仕方を変えるなどということは、とても不可能だった。
神道と仏教を、それぞれ独立した宗教としてとらえるという見方自体が近代になってはじめて生まれたものだ。
(中略)
伝統の強調は政治的な意味合いをもつ。伝統を強調する人たちは、それが昔から受け継がれてきたことに価値を見出し、それによってその存在意義を高く評価しようとする。 …… 神道の場合には、とくにそうした傾向がみられる。
そうか。近代国家は、拝み方まで庶民に強制していたのか。廃仏毀釈の大きさをあらためて思いました。
…… 伊勢神宮のことにふれたが、そこで紹介した参詣曼荼羅や旅行記には、伊勢参りに訪れた人たちの姿も描かれている。その人たちが、いったいどのような参拝の仕方をしていたかを見てみると、皆、合掌している。神社の社殿の前であろうと、寺や仏堂の前だろうと、まったく同じで、柏手を打っているような人の姿はまったく見かけない。
今日神社での正式な参拝の仕方とされているものは、明治になってから定められたものだ。したがって、近世までは、柏手を打つやり方は存在しなかった。多くの人たちは、はるか昔から日本人は神社の前で柏手を打ってきたと考えているかもしれないが、それは事実ではない。今のやり方は、わずか140年程度の歴史しかもっていない比較的新しいものなのだ。
神仏習合の時代には、神道と仏教が複雑に混じり合い、両者を区別することはできなかった。仏と神とを同時に祀っているようなところがほとんどである以上、その前では合掌するという統一されたやり方をとるしかなかった。神道なのか、仏教なのかをはっきりと区別して、それぞれ参拝の仕方を変えるなどということは、とても不可能だった。
神道と仏教を、それぞれ独立した宗教としてとらえるという見方自体が近代になってはじめて生まれたものだ。
(中略)
伝統の強調は政治的な意味合いをもつ。伝統を強調する人たちは、それが昔から受け継がれてきたことに価値を見出し、それによってその存在意義を高く評価しようとする。 …… 神道の場合には、とくにそうした傾向がみられる。
そうか。近代国家は、拝み方まで庶民に強制していたのか。廃仏毀釈の大きさをあらためて思いました。