古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

この国の恵まれた老後を感謝しつつ …… 。

2021年03月17日 16時44分06秒 | 古希からの田舎暮らし
 民生委員の方が写真のおくり物を持って来られました。

 口吉川町「ふれあいまちづくり協議会」から〈フルーツ詰め合せ〉のおくり物です。後期高齢者で独り暮らし/夫婦とも後期高齢者の二人暮らし/の家庭におくられるそうです。
 ありがたく受け取りました。この国の、老人への、なんと親切な配慮でしょう。
 このおくり物を民生委員からもらったとき、ぼくは昭和12年にこの国に生まれた人たちを思いました。昭和12年に生まれたぼくたちは、昭和19年に国民学校の一年生として入学しました。この頃から日本の大きな都市は空襲にあい、家を焼かれ、親や身内の者を亡くし、空腹をかかえて逃げまどい、集団疎開や縁故疎開でみじめな、ひもじい目にあい …… 。敗戦後、戦災孤児となり、「なんで親が死んで、オレだけ生き残ったんだ。なんでいっしょに死なせてくれなかったんだ」と何度も思ったことでしょう。餓死も日常のできごとだったでしょう。
 昭和19年に満州に集団入植した大兵庫村(高橋村の開拓団)の山下さんは、敗戦で逃げまどい、昭和20年8月17日に、ホラン河で集団自決しました。一家七人のうち一人だけ生き残った小学校5年生の幸雄さんは日本に帰ってきました。
 彼はその後の人生で「どうしてオレだけ生き残ったんだ。なぜ死ねなかったんだ」と思うことが何度も何度もあったそうです。国民を粗末にしたあの戦争を、忘れたくない。
 おくり物への感謝と、あの戦争で長く生きることのできなかった同い年の子どもたちへの思い。
 
 
コメント
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