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古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

『ニコバル諸島戦記』を読まれませんか。

2011年11月09日 01時43分56秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から
 本を2冊紹介します。「読んでみたい」と思われたらコメントにアドレスを入れてください。先着一名の方に、コメントはアップしないで本を送ります。本はどちらも光人社NF文庫で、書店で見つけて「読んでみよう」と買ったものです。先日本棚を整理したら同じ2冊の本を少し前にも買っていました。1冊は手元に置きますが、もう1冊はどなたか読んでください。
「なにかの縁で2冊も買ったのだから読んでみよう」と夜中に読みましたので感想を書きます。

◎ 『絶海の島・ニコバル諸島戦記』 前田 酉一(ゆういち) 大正10年生れ 和歌山県出身 著
     -インド洋最前線の孤島守備隊物語-

◎ 『ラサ島守備隊記』  森田 芳雄  大正元年生れ 福岡県出身 著 
     -玉砕を覚悟した兵士たちの人間ドラマ-

 2冊の本の内容を紹介します。きょうは『絶海の島・ニコバル諸島戦記』です。
 まずニコバル諸島というのは、インド洋のビルマ(いまのミャンマー)南にある島です。題名の「絶海の島」というのは誤解を呼びます。絶海の「孤島」ではありません。近くにたくさん大小の島があり、本隊はすぐ近くの島に駐留していました。
 ビルマではあの『インパール作戦』がありましたが、この本の日本軍はその作戦とはまったく関わりがありません。またイギリス軍が上陸して島で戦闘があったのでもありません。元は『弱兵インド洋作戦』という題で平成6年(1994年)に自費出版でもされたようで、2011年になってから光人社NF文庫として出版されています。
 なぜ文庫に入れられたか。 …… 太平洋戦争末期、いつ攻め寄せるかもしれない敵の影におびえつつも、必死に生き抜こうとする日本軍将兵たちを温かく見守り続けた一下士官の物語。内地の兵営生活から最前線、人間性の現わになった捕虜体験まで描く。 …… とブックカバーに記してあります。
 前田酉一さんは、徴兵検査は乙種合格で身体強健ではありません。体が弱く、下士官といっても乙種ですから上には上がれないし、弱いところにしわ寄せが来る日本軍の体質がよく描かれています。強がったり、ひがんだりしないで、むしろ感情を抑えて淡々と描かれているので、読んでいて引っ掛かりがなく、すんなり胸におさまります。
 東京裁判で死刑になった板垣征四郎に、こんな面があったのですね。その一節を紹介します。

 
(敗戦後英印軍の捕虜になり、南洋の島レンパン島の収容所に入れられていた昭和21年冬のことです)
 ある日、総司令官・板垣征四郎大将の訓示があるというので、各部隊は広場に集合した。戦中と違い軍刀も帯びず丸腰の司令官が副官や幕僚を従え、整列している私たちの前に姿を現し台上に立った。
「かしら(頭)、中」の号令で、私たちは一斉に大将に敬礼し注目したのだが、どういうことか敬礼を無視して傍らの副官に何か言っている。
 副官は私たちに、「敬礼が揃わない。やり直し」と叫び、再び敬礼を行ない、ようやく答礼があった。
 日本軍の中枢にいて陸軍大臣まで経験した板垣大将は、今回の日本敗戦の責任者であるといっても過言ではない。彼の命令により過酷な戦場での戦いを余儀なくされ、その上飢餓に耐えながら不安の日々を送ってきた幾万の部下に対して、一言の詫びも言葉もなくあげくに敬礼が揃わないとは何という傲慢な人物かと思った。こんな人間の部下であったとは情けなくなり、戦争に負けるのも当然であった。最高責任者自らが生きて虜囚の恥をかきながら、思い上がった態度で部下の前で威張り、今さら何を言うかの心境であった。
 
 世界的な指揮者の小澤征爾さんはもちろん平和を愛する人ですが、1935年(昭和10年)に当時の満州で生れました。歯医者のお父さんが満州事変の責任者石原莞爾や板垣征四郎と親交があり、二人から一字ずつもらって「征爾」と名付けたそうです。お気の毒というか、時代を反映した名前というか。