「天正六年(1578年)三木合戦が起きて三木城主・別所長治の7500余騎が篭城し、攻将・羽柴秀吉が織田氏の援軍とともに三万の大軍をもって三木城を包囲。一年十ヵ月の攻防の末、三木城主・別所長治は降伏し城主一族は自害して果て、城は開城された。」
三木市を紹介するパンフレットには、三木合戦のことがこのように簡潔に書かれています。信長がまだ生きており秀吉が配下にあって、領土分捕り合戦が各地で繰り返されていた時代のことです。別所長治は徹底抗戦の姿勢を貫き、秀吉にとっては長期にわたる大変な戦いでした。
この頃秀吉の陣営には竹中半兵衛という聡明な軍師がいました。三木合戦での包囲作戦も、半兵衛が秀吉に授けた戦術です。その竹中半兵衛の墓は三木市の平井にあります。
半兵衛は三木合戦の最中に平井山の秀吉の本陣で病死しました。長らく病気がちで一時は三木を離れて静養したのですが、最期は戦場に戻って亡くなったのです。秀吉は半兵衛にとりすがって号泣したと伝えられます。半兵衛まだ36歳でした。
笹沢佐保の『軍師竹中半兵衛』という本を図書館で借りて読みました。齋藤道三・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康あるいは今川義元・武田信玄・上杉謙信など全国制覇をねらった人たちと一味ちがう人物像が描かれています。
三木市街に買物に行く途中、竹中半兵衛の墓に寄りました。この墓に寄るのは二度目ですが、彼のことを本で読んだあとでお参りすると気持ちがずいぶんちがいます。だれが参ったのか新しい花と430回忌という真新しい木札が差してあります。
最近用事があってJR伊丹駅で人と待ち合わせました。早く着いて時間があったので散歩しようと駅前に出てみると見事な石垣がそびえ、『有岡城跡』と掲示があります。
荒木村重の居城であり、信長に属するよう説得に来た黒田官兵衛孝高が幽閉された城です。黒田官兵衛の息子は人質として信長に差し出され、秀吉が預かっていました。音信のない官兵衛に腹を立てた信長は、人質の息子を殺せと秀吉に命じ、秀吉に殺すように頼まれた竹中半兵衛は頑強に抵抗しました。笹沢佐保の『軍師竹中半兵衛』にしっかり書いてあったことです。
若い頃は『時代劇』というと敬遠してきたのに、いつしか多少の関心を持つようになり、長く生きるうちに半兵衛や官兵衛が眼前に現われる。なにかの縁なのでしょうか。
三木市を紹介するパンフレットには、三木合戦のことがこのように簡潔に書かれています。信長がまだ生きており秀吉が配下にあって、領土分捕り合戦が各地で繰り返されていた時代のことです。別所長治は徹底抗戦の姿勢を貫き、秀吉にとっては長期にわたる大変な戦いでした。
この頃秀吉の陣営には竹中半兵衛という聡明な軍師がいました。三木合戦での包囲作戦も、半兵衛が秀吉に授けた戦術です。その竹中半兵衛の墓は三木市の平井にあります。
半兵衛は三木合戦の最中に平井山の秀吉の本陣で病死しました。長らく病気がちで一時は三木を離れて静養したのですが、最期は戦場に戻って亡くなったのです。秀吉は半兵衛にとりすがって号泣したと伝えられます。半兵衛まだ36歳でした。
笹沢佐保の『軍師竹中半兵衛』という本を図書館で借りて読みました。齋藤道三・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康あるいは今川義元・武田信玄・上杉謙信など全国制覇をねらった人たちと一味ちがう人物像が描かれています。
三木市街に買物に行く途中、竹中半兵衛の墓に寄りました。この墓に寄るのは二度目ですが、彼のことを本で読んだあとでお参りすると気持ちがずいぶんちがいます。だれが参ったのか新しい花と430回忌という真新しい木札が差してあります。
最近用事があってJR伊丹駅で人と待ち合わせました。早く着いて時間があったので散歩しようと駅前に出てみると見事な石垣がそびえ、『有岡城跡』と掲示があります。
荒木村重の居城であり、信長に属するよう説得に来た黒田官兵衛孝高が幽閉された城です。黒田官兵衛の息子は人質として信長に差し出され、秀吉が預かっていました。音信のない官兵衛に腹を立てた信長は、人質の息子を殺せと秀吉に命じ、秀吉に殺すように頼まれた竹中半兵衛は頑強に抵抗しました。笹沢佐保の『軍師竹中半兵衛』にしっかり書いてあったことです。
若い頃は『時代劇』というと敬遠してきたのに、いつしか多少の関心を持つようになり、長く生きるうちに半兵衛や官兵衛が眼前に現われる。なにかの縁なのでしょうか。