松本春男の綾瀬市レポート(日本共産党元市議会議員)

2023年4月の綾瀬市議選で福田くみ子さんに
バトンタッチしました。

バングラディシュの海外協力⑬

2021年12月31日 | 日記

 女性が一人で外出しにくい村の改善に努めました。村の市場とモスクの建物の間に位置する事務所の敷地を村の女性が通過しています。なぜ、庭を横切るのか尋ねたら表の道は男性が往来して、ここの通路は女性たちが往来する通路だったとの説明に納得しました。
 村の女性が経済的に自立する方法として、ジュート(黄麻)の手工芸品を作って欧米のボランテイア団体が販路を設けているので、それらの団体のルートに参加して村で手工芸品の活動を始めました。最初に日本人の女性メンバー1人が首都ダッカで短期間の研修を受け、同時に村では手工芸品の制作する女性への働きかけを行いなした。元々ジュートは村々で植えられ、雨期の前か雨期に収穫して水に浸して皮を剥いでいた商品ですから、村に材料は沢山あります。ジュートは昔、大豆やコーヒー豆などの穀物を入れる袋として日本でも使っていました。
 基本的には、良質の綺麗なもので3つ網の紐を作って、刺しゅうしてマットを作ったり、シーカと言って物をぶら下げる紐の装飾品を作りました。村の女性もダッカに2週間ほどの研修に2人組で参加しました。殆どの女性が隣町のギオールしか出かけない若い女性が、首都のダッカに出かけるのは大変でったと思います。女性だけの外出は困難なので私も2人の女性を連れて行ったと思われます。その後、ダッカで研修を受けた女性や日本人女性が各集落で講師になり参加者が増えて行きました。
 製品の単価が高い品物に、シーカの飾りで下側にジュートのくずを丸めて外側を綺麗なジュートで包む製品がありますが、なかなか綺麗な丸に出来ません。中年の女性が出来上がったシーカを持って来ました。私も製品の検参加していたと思いますが、軽いはずのシーカが重いので直ぐに不正が判明しました。柔らかなジュートの球を綺麗なジュートで包んで丸い球を作るのが難しいので、泥だんごが乾いて固くなって包むと楽に出来るので作ったと思います。叱りましたが本人は丸くなっていると抗議していました。商品価値の意識の難しさを感じました。文字を書けない人たちは自分の名前も書けないのですが出来上がった製品の代金を受け取る時に、ノートに自分の名前を書いて受領しなければなりません、グループ内に識字が出来る人に自分の名前の書き方を習って初めて自分で自分の名前を書いている現場に遭遇しました。自分の名前を書く緊張感が有りました。
 自分の名前を書けなく、わからない書類に言われるままに書いて男性が自分の土地を取られたとの話も聞きました。


 


バングラディシュの海外協力⑫

2021年12月30日 | 日記

 

集落を回って調査したら、貧困層は識字率が低いこと、貧しいこと、地主が地域を仕切っていること、女性が外を歩いていないことなどが見えて来ました。当時のHBCは、貧困層の識字率を高まるため、男性肉体労働者対象のナイトスクールの開設と女性の労働システムの構築を行いました。幾つかの集落の寄り合い所を使用して学習の場を作りました。集落のボス的メンバーの委員会を作り少額の負担をお願いして、ナイトスクールで勉強する方にもランプの燃料代の負担を求め、集落の知識層の人が教える仕組みを作りました。教師の報酬はHBC負担で行いました、日中労働して暗くなってからの学習は大変だったと思います。ナイトスクールが運営されているかの確認作業が大変でした。
 独立戦争から4年しか過ぎていないので、強盗団が頻繁には犯行を行っていました各集落が離れていたので真っ暗な無人の農道を2人で歩いていました。ベンガル人からは、日本人はパーゴル(頭がおかしい)と何度も言われました。私は強盗団と突然遭遇しないように、アムラ・ジャパニ(私たちは日本人)と大きな声で叫んで歩いていました。ひたしい村人からはマシンガンはどこに置いてあるのか尋ねられました。最低でもピストルは持っていると思われました。


バングラディシュの海外協力⑪

2021年12月29日 | 日記

ダッカのボランテイア団体のメンバーの紹介で、ポイラ村出身の青年バッチュウを紹介され、活動地をポイラ村に選定した経過があります。早速、バッチュウが村の20代の男性7~8人に声をかけて話し合いを行いました。バッチュウには事前に日本人のボランテイア団体は、お金や物資の無料配布は行わないで地域活動を行うと何度も説明していたが集まった青年たちは、農業機械はいつ来るのかとの問い合わせをします。西パキスタンから4年前に独立戦争を行い、その後バングラディシュ全土に国際的ボランテイア団体が無償で物資の配布が行われていたので、物資の無料配布は行わないと言っているが本当は無償配布を行うとバッチュウが青年たちに話ていたようです。青年たちに詳しく説明したら協力は出来ないとモスリムの青年たちは去って行きました。バッチュウは本人が名乗っていたので名前と思っていましたが、あちこちにバッチュウと名乗る人がいます。バッチュウは名前なのか確認したら、良い兄さんとの事が明らかになり、バッチュウもメリットがないことが分ると近寄らなくなりました。当時、村のヒンズーの男女の青年二人を有給のスタッフとして雇用しました。この女性スタッフは後にポイラ村に赴任した日本人スタッフと国際結婚をして日本で暮らしています。

 


バングラディシュの海外協力⑩

2021年12月28日 | 日記

ポイラ村での地域開発を行うため、手分してベンガル人と一緒に各集落を回りました。1軒の貧しいと思われる家では、何を食べているのかと尋ねたら、食料品は一切なく、家の外の草を食べいる。別の家では1日食しか食べれないとの回答でした。しかし考えて見たら雨期のために、家の周りは殆ど水面下で魚は簡単に取れます。例えば事務所の隣のタバコ屋の親父は、店の前の幅50センチ程の水路の上に網を張って、上流側に簀の子上にしておくと、時々前に進めない10センチ程度の小魚がジャンプ網の上で暴れています。斜面に設置したのトイレの下は水路のために、人間が用をたすと音と臭いで小魚が集まって来ます。私も最初はびっくりしました。各家庭の斜面にある竹を組んだトイレの下は、水面が見えていましたが、私が用をたすと下では小魚が暴れて待っていました。


物忘れと認知症

2021年12月28日 | 高齢者

生活相談者と一緒に市役所職員と面談時、相談者の向かいに女性職員2名が座ったので相談者にお願いしました。これから一人が名前を名乗って自己紹介するので、5分後に名前を聞きますので覚えておいて下さい。右側の女性だけが胸に下げているプレートを指さして名前を名乗りました。一緒に来ている相談所の家族に制度の説明を行い、約3分後に相談者に先ほど名前を名乗った女性は左右の人のどちらが自分の名前を名乗ったのか分かりますか尋ねたら、「分からないが、覚えれるよう必死にしていたが、どちらか分からない」との回答でした。相談者は私が言った事は覚えているが、どちらが言ったかは分からなくなっています。物忘れなら、私が言った事も忘れているはずなのに、私が言った事は覚えているが、職員のどちらが名前を言ったのかは覚えられないことが判明しました。


バングラディシュの海外協力⑨

2021年12月27日 | 日記

 

活動拠点のポイラ村に向かう前に、行政区のマニクガンジュ県庁にアポなしで表敬訪問を行いました。直ぐに応接して案内され県知事か幹部の方が対応されました。近くの船着き場から川を遡りました。洪水の影響もあり川幅が数100m,大きな船の横に大きな生き物が泳いでいます。一駿サメがが居ると思いましたが、尋ねて見ると泥水に生息する川イルカと聞いてほっとしました。夕方にポイラ村の隣町のギオルのゲストハウス(倉庫のような建物)に夕食後宿泊。疲れていたので全員が爆睡、横朝起きたら手首・足首が少し赤く痒いので他のメンバーに聞いたら手足だけでなく背中も南京虫に襲われて酷く腫れています。被害が少ないのは私だけでした。
 朝食後、目的地のポイラ村に到着して村の中心地の6畳二間が事務所兼宿泊施設で活動を始めました。一緒に活動する予定で首都ダッカから来たベンガル人の青年は過ぐに引き上げ、ダッカの事務所からも居なくなりました。

 


自営業の難聴者が認知症に

2021年12月27日 | 医療

 

金属加工の工場を営んでいた高齢の男性が認知症になりました。これまで難聴の検査を行い障がい者手帳の交付を勧めていましたが手続きが面倒と言われ検査の同意が得られませんでした。11月下旬には大きな声で話すと理解されていましたが、昨日工場に出向くと、県外の親戚の方が工場の片づけを行っています。本人と会話をしても要領が得ません。親戚の方に尋ねると、5分前の会話は忘れているそうです。認知症の進行が急激に進んだようです。難聴の方が認知症になり易いのが明らかになりました。本人は工場の敷地内で紙類を燃やしていますので、早急な施設入所を行わなと工場が火事になる可能性があるので、これから市役所と相談して対応を考えます。昨日市内の認知症の入所施設に確認したら空があるそうですので、埋まらない前に手続きが出来るように市役所と相談します。


バングラディシュの海外協力⑧

2021年12月26日 | 日記

 

ダッカの事務所の日本人は、1973年に到着して活動していた女性のYさん(元病院のケースワーカ)、7月に到着していた男性のAさん(団体の代表)、7月下旬に到着した男性のWさん(元テレビ局の職員)、同時に到着した男性のYさん(大学写真学部4年生)、私と一緒に8月初旬に到着した女性のIさんです。みんなで話し合ったらバングラディシュに来た目的がバラバラでしたが、どこかの村に入って地域活動を行う事で合意出来ました。(大学生のYさんは、短期で大学に帰る事を確認していました)。海外協力に詳しいベンガル人のアドバイスで3か所程の村の調査に3~4人が出かけ、議論を行いダッカから約60㌔程度離れているポイラ村を活動地に決めてました。郊外の都市に向かうのに、日本人4~5人とダッカで一緒に生活していたベンガル人男性と一緒に、ダイレクトバス(急行バス?)に乗車してポイラ村に向かいました。4年前に西パキスタンから独立戦争を行った東パキスタン(バングラディシュ)はインフラの復旧が遅れ、川を渡るのに橋がなく、ローカルバスは橋の手前で引き返していましたが、ダイレクトバスは大きな筏(渡し舟)にバスを載せて川を渡っていました。最初の川に近づいた時に女性のYさんが松本君は泳げるのか尋ねるので少し泳げると答えました。バスが筏の手前に着くと松本君は車内で荷物の番をお願いねと言ってバスを降りて筏に乗りました。バスも動いて筏に乗りましたが乗客は私の他は2人程度しか残っていません。対岸に着いてバスが走り出しましたので、何で乗客がバスから降りるのか尋ねたら、バスを筏に載せるとき、誤ってバスが川に落ちる事故が起きているので危険なので乗客はみんな降りるとの説明。何で私に教えてくれないのか尋ねたら、教えたら荷物の番をしないで松本君も降りるで言わなかったとの説明。暫くすると同じような筏があり、バスに残りましたが、今度は窓を開けて川にバスが落ちたら逃げて泳ぐ覚悟を決めていました。洪水が終了した数か月後に同じように逆方向から川を渡ったが橋が有るので、筏はなんだっいたか不思議です。

 


厚木基地の新型コロナウイルスで市長に申し入れ

2021年12月25日 | コロナウイルス

 昨日、12月24日に、日本共産党市議団で市長に申し入れを行いました。沖縄県米軍基地における新型コロナウイルスのクラスター発生を受けて厚木基地の米海軍に対しても対策強化を求めることについての申し入れ

 米軍基地キャンプ・ハンセンでクラスターが発生し、日本人従業員もオミクロン株に感染している状況から、市から米軍に要請するよう求めました。
 *基地内での変異株のスクリーニング検査体制の早急な構築を求め、陽性者のオミクロン株保有の有無の報告を求めること *基地に勤務する軍人、軍属の外出禁止を求めること *感染が収束するまで米本国等から厚木基地などの基地への軍人、軍属の移動停止を求めることを求めました。
 市側からは、古塩市長、内藤副市長、足立市長室長が対応され、上田団長と松本が参加しました。
 市では、27日(月曜日)に厚木基地に出向くそうです。写真は左から内藤副市長、古塩市長、上田団長、松本です。

 


バングラディシュの海外協力⑦

2021年12月25日 | 日記

バングラディシュに到着してパニックになり事務所から出るのが怖くなりとじ困っていました。メンバーの女性から外に出ないとダメとの指摘を受け、ベンガル人男性と毎日の買い物に行きました。冷蔵庫がないので、毎日2㌔ほど離れたマーケットの買い物に行きました。
 事務所からマーケットへの交通手段は、バス、ベビータクシー、リキシャ、徒歩です。バスは他の都市に向かうダイレクトバスと市内を走るバスが有りました。日常の買い物にはバスを利用してマーケットに向かいますが、車内は満車状態で中には入れず、いつも開いているドアの所に右足の先半分をステップに載せて、右手で車内の棒を掴んで移動していました。ドアの所に10人程度がぶら下がっています。バス停で停車すると降りる人のため、バスから離れ出発するとぶら下がる状態です。ベビータクシーは3輪自動車ですが値段が高いので殆ど乗りませんでした。買い物をして帰りは荷物があるので、リキシャは3輪自転車です。人力車と3輪自転車が合体してものです。ベビータクシーとリキシャは乗車前に行先を言って値段の交渉が必要でした。一人で買い物に行くようになりましたが、大きなマーケット前にリキシャが15台以上お客を待っていましたが、コラバガンまでの運賃を「コラバガン・ダム・コト」(コラバガンまでいくら)と呼び掛けても全員が高い金額をのべています。外国人なので高い金額にしょうとしています。怒って歩いて帰りましたが荷物が重く大変でした。翌日にリキシャに値段交渉をしたら、全員が通常のベンガル人の料金でした。リキシャ仲間であの外国人に値段を吹っ掛けるとリキシャを使わないの噂が広まったと思われます。その後時々、首都ダッカに出て来て買い物に行って運賃交渉でのトラブル被害にあいませんでした。
 日本人の商社の人が初めてダッカ国際空港からホテルまでタクシーの値段交渉を英語でして運転手が示した金額の半分に値切って喜んでいたら、後で分ったことですが通常料金の80倍の金額を40倍の金額で乗車したそうです。
 マーケットの中は、1つの店舗が3畳程度の広さで、同じ業種の店舗が集まっています。お米、魚、野菜、肉、香辛料、衣料品などのコーナーに同業者が集まっています。
 魚は川魚のみで、安い魚は小骨が複雑で食べるのが大変です。肉は固くて食べるのが大変な肉もあるので、ぶら下がっている部位を右指で摘まんで、その部位を希望する重さでカットしてもらいます。勿論、重さを述べて値段交渉を行いカットして貰います。1度肉を買って帰り調理してカレーで食べましたがゴムの塊を食べているようで困ってしまいました。
 ニワトリは生きているニワトリを購入して自分で調理するのですが最初は失敗しました。
 ニワトリは首を切り落とすと、そのまま絶滅してくれると思っていました。
 ニワトリの首を落として油断したら、向こうも生きるのに必死なので、頭は私の足元に残っているのに、頭のないニワトリが走って逃げて行きました。5m程度先まで逃げて行き絶滅しました。その後は、逃げないよう押さえていました。


 

 

 

 


バングラディシュの海外協力⓺

2021年12月24日 | 日記

 飛行機が高度を下げて来たらバングラディシュの地面が見えて来ました。バングラディシュに雨期がある事は事前に学習していましたが、機上から大地を見ると想像以上に驚きました。
 地上に見えるのは、幹線道路と住宅だけで殆どの土地が冠水して水面の下になっています。頭に浮かんだのはこの国では船で生活するのだと思いました。
 後で判明したのは1 974 年の大洪水が発生したのです。翌年の雨期に経験して理解したのですが日本の洪水は一瞬に水位が上昇しますが、バングラディシュの水位の上昇は平面的に増えていきます。地面に杭を刺して観察すると1日で横に3m水面が増えるような状態でした。
 首都のダッカ国際空港に到着して、7月に事務所兼宿舎として賃貸したコラバガン地域の家に向かいました。4部屋で水洗トイレも有りました。日本人男性4人、女性2人、ベンガル人が男性1名、女性1名の共同生活。事務所から近くのバス停までの路地は膝まで浸かって歩かないといけない状態です。到着した日に冠水していたかは記憶がはっきりしていませんが、10日程度後には冠水していました。ベンガル人の方は若く高学歴で私たちに日常の生活のアドバイスをしてくれました。室内に水洗トイレがありますがトイレットペーパーはありません、左手でお尻を拭いて、水ポットで左手を流す仕組みです。正確に確認していませんが道路にマンホールは無かったので排水管で近くの空き地か用水路に垂れ流しだったと思います。トイレットペーパーを使用しないので河川の汚れは気になりませんでした。


バングラデシュの海外協力⑤

2021年12月23日 | 日記

 7月末か8月初めに、バンコック経由でインドの東部にあるコルカタ(当時はカルカッタ)国際空港に到着しました。
 出国カウンターで荷物の検査が行われ、検査する職員がいろんな機材には無関心でしたが安いボールペン1本に興味を持ち自分が欲しいと要求してきました断ると何回も自分が欲しいと繰り返します。同じ飛行機の乗客は手続きが終わり乗客は自分たちだけになりました。
 膠着状態に出国ゲートのガラスドアの外で待っていた当時のHBC委員長がゲートを警備しているインド人を無視して、カウンターに来てボールペン1本は渡すので検査は終了と言って無事に終わりました。当時、バングラディシュでボランテイア活動を行う政府との契約が殆どの団体が取れず、3カ月の滞在が可能の旅行者扱いの為、3カ月に1回は外国に出国して、再入国を繰り返すためで出国して、同時に私たちを迎えに来てくれていました。
 日本の感覚では、国際空港の出国手続き職員が安いボールペン1本をワイロとして請求することに驚きました。数日滞在後、バングラディシュのダッカ国際空港に向かいましたが、日本の商社員はダッカの国際空港を出入りする時は、パスポートに現地の1か月分程度の給与に見合うドル札を挟んで見せて渡すしているとの話を聞いて納得しました。
 インドからバングラディシュに向かう飛行機は東京~大阪程度の短い距離ですが国際線なので飲み物とお菓子が出たと思います。上昇して水平飛行になり飲み物とお菓子を配ると直ぐに容器の回収をしていました。