幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

まだできない自分を楽しむ

2014年11月23日 10時28分38秒 | 波動
 ほんの些細なことで夫が切れた。
切れた最大の原因はいつもの「被害者意識」の思考回路のせい。


 人の言葉をきちんと受け止めずに
こちらの意図とは全くかけ離れ
曲解し、被害者となり、怒り出す。

批難も批判も、ましてやそんな言葉など一言も言ってはいないのに
いつの間にか自分が捻じ曲げて創り出した思いを
こちらが「言った」言葉だと信じてしまう。

そうして怒り出す。

若いころからの思い癖。
少しはましになったけれど
やっぱり治りきらない思い癖。



仕方ないね、一生かかるかもしれないね、
死んでも治らないかもね、


・・・・・と、わかっているのに
それを受け止められない私がいる。


 ま、さすがに昔のように
それに対して同じように激怒したり
こんな男と結婚してしまって、と情けなくなったり
ああ、もうがまんできない!!と、とびだしたり・・・

はしなくなったけれど
それでも、
さらっと水に流すことができないでいる。




 今、この一瞬に生きる
と、努めているのだから
既に過ぎてしまった彼の言動に引きずられているのはバカバカしい。
引きずられていると
大切な私の「今」を失ってしまう。



 が、未熟な私はわかっていても引きずられてしまう。

あ~~~あ、私もまだまだまだ、ということだろう。
人間が小さいね。


 


 でも!!
でも!!なのだ。



「できない私がまだここにいる」

それでよかったのだ。

できないという自分を味わえればよいのだった。
それに
できないから、成長の余白があるということだもの。

今日はまだできないだけ。
明日はできるかもしれない。

よしんば、死ぬまでできなかったとしてもそれでよし。
できるように頑張ってみる、
頑張ることを体験する、
そのことにこそ生きる価値があるのだったわ。






 まだできない私をもう一人の私が見ている、
まだできないねと、笑ってみている。

それでいいのだと思う、
まだできない自分を今は「それでよし」と受け入れよう。
そうして
できない彼をもまた
「まあ、しゃあないか」と受け流そう。

天空の城

2014年11月23日 08時52分46秒 | ひとりごと
 確率は36分の1程だという。
しかも時雨れたり雪に覆われたりで足元が悪くなる冬場にしか見られない。
 
わが故郷、福井県大野市が大々的にアピールしだした「天空の城・越前大野城」



 子どもの頃、そんな話は聞いたこともなかった。
85年間この地で生きてきた母ですら見たこともない。

それがいまや全国版で報道され
それを見ようと訪れる人が増えた、そうだ。



 駅に張り出された観光ポスター
高速のサービスエリアに置かれているパンフレット

確かに、幻想的で美しい。
一度は見てみたいと思う。



 が、365日の中で運が良くてわずか10日
しかも早朝一時間ほどの短い時間。

そんな稀有な瞬間を
あたかもいつでもみれるかのように
大々的な観光資源として売り出す。


それって詐欺に近いのではないかしらと首をかしげてしまう。





 ただ、その存在を知るという上では役には立つ。
頑張って「見る」ことを試みようと思う。

こんなに美しい光景を
ずっとこの地に生きて
今日まで知ることもなかった母に
冥土への土産として見せてやりたい、とさえ思う。

その光景が見せられるのならば
標高324mの山道を
負ぶってでも上ってあげようか、とまで思ってしまう。



 




 それでもなお、情報提供の範囲を超えて
全面的に「観光資源」として打ち出すことへの疑念は消えない。

自然相手なのだから「確実」が無理なことは承知している。
でも、訪ねる方の立場からすれば
せめて2分の1程度の確率、時期と時間帯の制約程度であってほしい。
最高の状態ではなくとも
そこそこは楽しめるものであってほしい。


「行けばかなりの確率でみられる」
それでこそ
「観光」だ、

と思う私は何か勘違いをしているのだろうか。



 人情に厚く、心根の優しい人々の多い大野。
その大野をわざわざ訪ねてくださる観光客の多くに
「落胆」を味わわせて帰すことに関係者たちは心が痛まないのだろうか。


 


 天空の城「越前大野城」は幻の城

天がその幸運を与えてくださる超ラッキーな人
もしくは
あきらめずに何度も何度も挑戦した努力の人
にしか見られない幻の城なのである。




 



 白山連峰をはじめ
四方を美しい山々に囲まれたこの地を
私は安曇野に負けないくらいだと思っている。

 とりたてて「観光」するものはない田舎町だけれど
でも、住んでいる人たちには当たり前の見慣れたものにこそ
素晴らしいものが含まれている美しい風景の町だ。




 たとえば、田植えが終わって一か月ほどのち
稲が30センチくらいに伸びた頃の一面の青田が
風にそよぐ姿は何とも心が洗われる。

 その田の向こうに
まだ残雪のある荒島岳を見る光景は本当に美しい。
大野盆地に入ってすぐ
乾側(いぬいかわ)から庄林(庄林)に抜けるあたりが私は大好きだ。

荒島岳が夕日に照らされる姿
それが刻一刻と変化する美しさを地元の人々はどれだけ堪能しているのだろうか。


 


 また、城下町を一望する六呂師高原

秋には黄金色の棚田がそれはそれは美しい。

その時期に、お天気さえよければ、
間違いなくその美しさの中に立つことができる。

夕焼けに輝く棚田の黄金色の海の中で
西の山に沈みゆく夕陽の光景はまさに極楽浄土のような風景になる。





 さらには、寒くなり始めるころの九頭竜川
水は紺碧に澄み岸辺にはススキが銀色に揺れる。

岸辺の石に腰かけて
赤紫に輝く山々を眺めながめる時間は
まさに「至福の時」としか言いようがないほどだ。

ポットにお好みの暑い飲み物を持参し
それを飲みながらゆっくりと大自然に包まれてみてほしい。




 今までのような価値観で眺めれば何もない町
けれど、もう、ハードを重視するする時代ではなかろう。

何もないからこそ、
いや、こんなにもいっぱいあるのだから
ほとんど見られもしないような稀有な光景で人々を釣るのではなく
いつでも目にし、体験できる、確率の高い「風景」や「時間」を提案し、
わが故郷へ癒されにいらっしゃい
と、胸を張れるPRをしてほしいと願わずにはいられない。





小さな幸せ

2014年11月22日 23時06分05秒 | 暮らし
 この頃
 窓を開けておくと
 なぜか
 ミツバチさんが入ってくる




 ぶんぶんと
 部屋の中をひとしきり飛び回って
 あちこちに着陸し
 何かをリサーチしているかのように歩き回り
 そして
 また窓から出ていく



 ほっとする間もなく
 またやってくる



 蜜なんて採れそうにないこの部屋へ
 なぜそんなに頻繁にやってくるのかと本人に尋ねてみるが
 テレパシーの使えぬ私にはさっぱりわからない






 それにしても
 よくよく見ていると
 けなげでとってもかわいい


 小さな身体だけれど
 私との縁あって
 こうして同じ時間を、同じ場所で共有しているのだと思ったら
 なんだかとっても嬉しくなった







「みんな、同じ、生きているんだ
 一人に一つずつ小さな命」


・・・・・確かイルカの曲だったっけ・・・


「私は生きていることが大好きだから
 他の生き物の命もたいせつなんです」

 みたいなことを画家の熊谷守一は言っていたな





自分がミツバチになったことを想像し
ミツバチの命を自分の命と重ね合わせた瞬間
自分のことをとってもけなげに思え
ミツバチのことを凄いと思った。



生きているって
それだけで素敵なんだな


って
そう思えた。



そして
そう思えたことが今日一番の幸せのような気がする





 

しあわせの祝文(じゅもん)

2014年11月22日 22時56分28秒 | 波動
 「しあわせの祝文」 22日目 より



〝 諦めさえしなければいつか必ずできるんだ

  できると信じて続けさえすれば
  
  その日は必ずやってくる"




     人間は
     諦めさえしなければ
     いつか必ずできるんだ


     自分の力を信じ
     お陰様に感謝し
     努力を続ければ
     必ず、必ず、
     その日はやってくる


     大切なのは
     自分を信じ続ける事
     できると信じ続ける事



     感謝して
     信じて
     続けよう
     続けるんだ

     

小さな贅沢 5

2014年11月17日 22時22分02秒 | 暮らし
 最後の秋を愛おしむように
 晴れた日の午後
 公園に出かけてみる



 杉苔の生えているところを捜し
 アリさんの目線になるように這いつくばってみる



 ドングリや落ち葉の落ちているところでも
 アリさんになってみる



 杉苔は大きな木のように見え
 どんぐりは大きな岩に見える




 木洩れ日が揺れて
 落ち葉の下から
 いまにも
 ニングルが飛び出してきそう




 

 ・・・・・秋の終わりの小さな小さな楽しい冒険