幸せになろうね 改め しあわせだね

日々の生活の中のほんの小さな出来事をどう捉えるかで
私達はすぐにも幸せになれるのです。

老いの重荷で古びたこころに最後のみがきをかける

2020年05月18日 14時37分56秒 | ひとりごと
   2020・5・7 焙烙山にて

老いの重荷は神の賜物、

古びた心に、

これで最後のみがきをかける。

まことのふる里へ行くために

    
           ヘルマン・ホイヴェルス神父 「最上のわざ」より


この一節が実感となる歳になってしまいました。

老いるということは実感が増えるものなんですね。


老いた親や知人たちはみな一様に口をそろえて言います。

「若い人に迷惑はかけたくないからね。
 できるだけ独りで頑張らなきゃ」

確かに、
「もう若くはない人」になってしまった私もまた
「若い人々」に迷惑はかけたくないと思ってしまいます。

だからといって、何かと言えばすぐ病院へ駆け込む現代人が
「若い人」に迷惑をかけないはずはありません。


が、果たして「迷惑」とは何なのでしょう?

赤ちゃんが誰かに世話されないと生き永らえないように
老人もまた誰かに世話にならざるを得ないのではないでしょうか?


赤ちゃんは世話されるときに「迷惑をかけている」とか「申し訳ない」などとか思うでしょうか?

ただ、泣いて不快の意志を示し
笑って快の表現をする。
その純粋な笑顔が世話するものをはじめ
全くの他人さえを幸せにする。


ならば
老人もまた、「素直「」に快不快を表現し
世話されることを受け入れ
「素直」に笑っていればよいのではないでしょうか。

老いの重みは神の賜物

古びた心にこれで最後のみがきをかける



「老いの重み」は「神の賜物」なんです。

それで、心に最後のみがきをかけるんです。

素直になる、感謝をするという磨きをかけるんです。


ところがそれを
浅はかな理性が邪魔をして「申し訳ない」「世話にはなりたくない」などとマイナーな波動を出すから
赤ちゃんのような無垢な光になれないのでしょう。
そして、本人はもちろん、世話する人も重苦しくしてしまうのでしょう。

ヘルマン神父はこうも言います。

〝人のために働くよりも

 謙虚に人の世話になり

 弱って、もはや人のために役立たずとも

 親切で柔和であること・・・‶



謙虚に世話になることも
親切で柔和であることも、実に難しい。
きっと
若いときにしっかりしていた人ほど難しいのではないでしょうか。

とすれば
痴呆になって
その理性とやらを手放さざるを得なくなるのは
まさに神様からの贈り物なのかもしれません。

「痴呆にだけはなりたくない」
「痴呆になったらみんなに迷惑をかける」

よく耳にしますが
その思い込みこそが自分も周りも不幸せにしているのではないでしょうか。



少なくとも私は
父が痴呆になり、寝たきりになってくれたおかげで
最後の最後で父への確執を取り除けた気がしています。



父は痴呆 春蝉の明るさ
     シロモジの若葉


お稲荷さんにちゃんとお礼参りをいたしましょう

2020年05月18日 10時58分04秒 | ひとりごと
以前に伏見稲荷の有名な「お代」さんの砂澤たまゑ氏の言葉を書いたことがある。

その言葉を知ることになった本はなんとなく図書館で気になって借りたもの。

が、それを読んで反省したのは「近頃お参りをおろそかにしていたなあ」と言うこと。

私が今の住まいに入れるかどうかの瀬戸際の時
偶然にも隣のお稲荷さんにお参りしてしまい
その時に宣言したことがある。

「この願いを聞き届けてくださったなら、私は毎日100円持ってお参りに来ます」

そして、願いは聞き届けられ
最初のころは雨の日も風の日もその約束を守っていた。

それどころか
お賽銭が豊富にあるときは100円と言わず200円だったり500円だったり・・・

おまけに鳥居一基と石のお狐さん二体と、も寄進させていただいたし   

春と秋の大祭の折には感謝の幟旗も納めさせていただいている。





が、そのせいで逆に

「ま、これだけしたんだからちゃんと御恩はお返ししてますよね。
 たまに、お参りしなくてもご勘弁くださいな」

と、勝手に解釈し、雨風が激しいからとか
お賽銭がないから、などと理由を付けては
お参りしない日が増えてきた。

つまり、約束を反故にしているのだ。


そんな自分を見るとき
いつも思い出す昔ばなしがある。

お話の舞台はたいていが深い淵とか、滝つぼ。

貧乏な村人たちがその淵(滝つぼ)に来てお願いしておくと
立派な塗りのお膳一式が人数分だけちゃんと用意されている。
それを感謝してお借りして、丁寧に扱い、元通りきれいにしてお返ししている間は問題はないのだが
そのうち、心無い人が「一式くらいわからないだろう」とくすねてしまう。
それ以来、いくらお願いしても一切お膳が用意されることはなくなった。

というような内容。

実際、そういう言い伝えのある淵や滝壺は今でもあちこちにある。

その「お膳をくすねた村人」に参拝をさぼる自分が重なって気が引けていた。


そんな時、先の砂澤氏のことが書かれた本の中に、
一度御縁を結んだお稲荷さんにはちゃんと誠意を尽くすように
というような言葉を見つけ

「あ、これはお稲荷さんからのお諫めだな」

と感じ、また、まじめに参拝するように心がけてはいるのだが
それでも、心が以前ほど熱心でないのを知っている。

そして昨日、美容院で目の前に置かれていた雑誌が「お稲荷さん」特集。

書かれていたのは桜井識子氏が伏見のお稲荷さんから伺ったといういろんな言葉。

それがまたまた、今の私へのお教えのように感じてしまったのだ。



この世のことは全てが共時性。

私の意識の中に後ろめたさがあるから、そういう言葉を引き寄せる、ともいえるし
自分の中の思いへの回答が即座に与えられている、ともいえる。

いずれにしても私は短い期間にお稲荷さんの思いを知り、どうすべきかを教えてもらったのだと思う。


小さなお稲荷さんは信仰がないと消えてしまったり
ひどいときには野狐やまがい物になってしまったりするらしい。
そしてお狐さんにも喜びや悲しみはあるという。
そりゃぁ
神様だってお喜びになったり悲しまれたりするのだから
お狐さんに至っては何をや言わん、であろう。


神社参りやパワースポット巡りも好いけれど
参って、巡って、もし祈願したのなら
ちゃんとそれなりの感謝とお礼もしてこそ、なんですね。

もちろん、それをしなかったからと言って神様が罰を与えることなどはあり得ません。
(お狐様の場合はちょっと違うみたいですが、少なくとも宇迦之御魂大神は
 そんな器の小さな神様ではあられません)

それでも
やはり、「感謝」は嬉しくていらっしゃるし
「感謝」を受けられることはお力を増すことにつながるようです。

知っていながら「借りたお膳」状態にになりそうな私への具体的なお光透波。

有難い事です。

さあ、たまにはお賽銭は1000円にしようっと!!
雨風に理由をつけるのはやめようっと!!

さあ、
今日も心を込めて感謝して参りましょう。

弥栄八坂  ありがとうございます。







今日のおやつ 味噌クルミ

2020年05月18日 10時32分48秒 | お料理
  2020・5・18 

朝の散歩で摘んできた「龍城(たつき)茶」と「味噌クルミ」で10;30a.m.のおやつタイム

八十八夜の朝に一度だけ摘んだけれど
今年はなんだかお茶の木も元気がなくて
新芽に勢いがなかったから
その後は摘んでいない。
いつもなら、四、五回は頂くのだけれど・・・

それを久しぶりに今日摘んで来た。

やはりもう大きくなってしまっていることに加え、
どなたかがけっこうたくさんお摘みになった後がしっかり残っていて
摘める新芽は少なかった。

ふふ~~~ん、私と同じことをする人がいらっしゃるんだな、と微妙な気分だった。

それでも、夫と二人で二杯ずつ
ハーブ茶のようにして楽しむだけの量には恵まれた。


さて、今日のお茶請けは「味噌クルミ」

さすが八丁味噌の元祖の地!!

クルミも八丁味噌で焚いてしまうのか!!
こんなのがあるなんて知らなかった。

原材料はクルミのほかに
砂糖、醤油、水飴、かつおだし、寒天、となっている。

普通は味噌が入らない「クルミの飴煮」なのにね(笑い)

岡崎に住んで34年、最近ようやく知った食べ物。
今日で三回目?かしらん?!

これが結構お気に入りで、買ってきてもすぐに食べてしまうのだ。

コロナが収束して他県への移動が気兼ねなくなったら
これをお土産にしてみたいと今から楽しみにしている。