19、20日と京都を訪れた。目的はあるライブコンサートに参加するためであった。その日程を全て流れに任せ、頂くものに意味を見出し、感謝して受け止めた結果、今回の京都はけっしてライブのためではなく、私自身の心の浄めのためであった。
そんな京都での体験をおいおい書いていきたいと思うが、今日はまず祇園さん・・・つまり八坂神社で耳にした事をお話したい。
小学校低学年とおぼしき女の子とそのおばあちゃまの会話である。
「おばあちゃん涙出てはる!」
「そやねん、ココへ来ると気持ちがいいさかい、おばあちゃん、いつも涙が出てしまうねん。」
おばあちぁまも女の子も、すぐ近所からいらしたような気軽な服装。
とりわけ信心深いとか、なにかスピリチュアル的の事柄に関係しているとか、そんな風情は全くない。孫に指摘されてやや恥ずかしそうに両手で涙を拭う姿などは本当に「どこにでもいるただの人」である。
その老人が八坂さんの本殿にお参りし、気持ちよくて涙を流しているのだ。
八坂さんがすごいのか、老人がすごいのか。
・・・ちなみに、すでにその時間には観光客もかなり参拝しており、境内に荘厳な雰囲気が満ちているとは言いがたい状態であった。
私は最近、自分の涙で物事を判断する事が多い。
有名な名画を見てもただ「ふう~~~~ん」としか思えない時もあれば、無名の作家の絵に涙がぽろぽろ流れてしようがない時がある。そんな時はその名画より無名の作家の絵のほうが、私にとっては意味があるのだ。
神社に詣でても、涙が出るときと出ないときがあり、出た時は天の意思と何らかの形でつながったと思う事にしている。特に、哀しくも嬉しくもないのに涙が勝手に流れる時は、顕在意識の私が気づかぬところで、私の細胞たちが反応してくれているのだと信じ、その涙が止まるまで甘んじてその状態を受け止める事にしているのだ。往々にして、それは気持ちのよい事が多い。
先の、おばあちゃまはこのような事を意識してはいらっしやらないかもしれない。
けれど、彼女は長年の年を重ね、ちゃんとエネルギーを受け止める身体になってきているのだ。意識しようがしまいが彼女の60兆個の細胞たちはちゃんと八坂さんのエネルギーを貰い、彼女の潜在意識を浄めたのだ。あるいは、神の意思と繋がったたのかもしれない。
八坂さんの主祭神はスサノオノミコトである。
そんな京都での体験をおいおい書いていきたいと思うが、今日はまず祇園さん・・・つまり八坂神社で耳にした事をお話したい。
小学校低学年とおぼしき女の子とそのおばあちゃまの会話である。
「おばあちゃん涙出てはる!」
「そやねん、ココへ来ると気持ちがいいさかい、おばあちゃん、いつも涙が出てしまうねん。」
おばあちぁまも女の子も、すぐ近所からいらしたような気軽な服装。
とりわけ信心深いとか、なにかスピリチュアル的の事柄に関係しているとか、そんな風情は全くない。孫に指摘されてやや恥ずかしそうに両手で涙を拭う姿などは本当に「どこにでもいるただの人」である。
その老人が八坂さんの本殿にお参りし、気持ちよくて涙を流しているのだ。
八坂さんがすごいのか、老人がすごいのか。
・・・ちなみに、すでにその時間には観光客もかなり参拝しており、境内に荘厳な雰囲気が満ちているとは言いがたい状態であった。
私は最近、自分の涙で物事を判断する事が多い。
有名な名画を見てもただ「ふう~~~~ん」としか思えない時もあれば、無名の作家の絵に涙がぽろぽろ流れてしようがない時がある。そんな時はその名画より無名の作家の絵のほうが、私にとっては意味があるのだ。
神社に詣でても、涙が出るときと出ないときがあり、出た時は天の意思と何らかの形でつながったと思う事にしている。特に、哀しくも嬉しくもないのに涙が勝手に流れる時は、顕在意識の私が気づかぬところで、私の細胞たちが反応してくれているのだと信じ、その涙が止まるまで甘んじてその状態を受け止める事にしているのだ。往々にして、それは気持ちのよい事が多い。
先の、おばあちゃまはこのような事を意識してはいらっしやらないかもしれない。
けれど、彼女は長年の年を重ね、ちゃんとエネルギーを受け止める身体になってきているのだ。意識しようがしまいが彼女の60兆個の細胞たちはちゃんと八坂さんのエネルギーを貰い、彼女の潜在意識を浄めたのだ。あるいは、神の意思と繋がったたのかもしれない。
八坂さんの主祭神はスサノオノミコトである。