5月24日に奥城山登りました、その帰りに大杉神社に行って参拝してきました。
寄りたかったのは大イチョウと神社の彫刻が観たかったからです。
神社前の由緒書きによると
御祭神は、大国主命 須瀬里姫神
由緒、この神社は、大国主命、須瀬里姫神を祭神としているが、その建立起源は定かではなく、藩政のころ亀渕村の西の宮と鴫社村の北の宮を合祀し、現在の大杉神社になっている。
その昔、この神社の西方に巨大な杉樹があった事から,この地を大杉と呼ぶようになったようである。
現在の神殿は、慶応2年に大工権蔵により改築され、拝殿は御大典記念として、大正4年に改築されている。
鳥居篇額は海軍大将、東郷平八郎の筆によるものである、なお、拝殿前にある大公孫樹(大イチョウ、小松市指定文化財)は、山崎高五郎の家臣が植えたと伝えられている。
(山崎高五郎は城山が山崎城と呼ばれていた頃の党首である)
境内の説明書き表示を要約すると
大杉神社の大イチョウ、小松市指定文化財
この大イチョウは推定樹齢450年(1969当時)で、地上4.5mのところより5大幹に分岐しこの部分は特に太く、このところに数十本の乳柱(ちばしら)が蘇生している、乳柱の長さは、2m、1m、40㎝などがあり見事である。
実測によれば、根元の周囲8m、地上1.5mの周囲で5.4m、樹高36mとなっている。
乳柱(ちばしら)が見事です、乳柱は気根と云って、勢力が旺盛な木に多く出るようです、地に着くと根が出て主幹が何らかの事情でなくなった時に取って代わるために樹木が備えているのです。
大イチョウと共に観たかったのは、拝殿の柱や欄間に施された彫刻です、神社の由緒によると慶応2年と大正4年に改築されている記録がありますが、この彫刻はどの時代のものか分かるような文献は見られませんが、素晴らしい彫刻を現在に伝えた彫刻家や大工の棟梁の業には感服します。
狛犬の阿形
狛犬の吽形
境内の一角に番持石が展示されていました、昭和59年に三名の方々が初老記念に奉納された物です。
石板に番持石の事が書かれていました、画像では読みにくいと思いますのでここに記します。
この石は”力持ち石”ともいい番持ちの盛んだった徳川時代から明治、大正にかけて娯楽がなかった山村では一日の仕事が終わると神社に若者が集まって力競べをするために使ったものである。
通稱米4斗石とか5斗石とか言われていた自然石でこれほど丸いものを揃えたものは珍しい、今では番持ち石も昔の物語とこの石だけ遠い青春を語りかけているようです。
画像では分かりにくいと思いますが、右から3斗石、6斗石、7斗石、1石石と記されていました。
今の私は見ただけで、ギックリ腰になりそうです、昔の若者は力持ちが多かったようですね。
手水舎
奥城山に登るために登山ルートを調べていたら、この神社の近くから登るルートも有って、この神社の事を知りました。
実際、私が登ったルートはここより下の「蓮如上人お杖の名泉」を通るルートでしたので、下山した帰りに寄りました。
一向一揆の歴史が語り継がれる山里に神道の立派な神社がある事に驚きました、地元の氏子衆によって幾歳守られてきた歴史の重みを感じました。
御訪問頂き、最後までお読み頂きありがとうございます。
寄りたかったのは大イチョウと神社の彫刻が観たかったからです。
神社前の由緒書きによると
御祭神は、大国主命 須瀬里姫神
由緒、この神社は、大国主命、須瀬里姫神を祭神としているが、その建立起源は定かではなく、藩政のころ亀渕村の西の宮と鴫社村の北の宮を合祀し、現在の大杉神社になっている。
その昔、この神社の西方に巨大な杉樹があった事から,この地を大杉と呼ぶようになったようである。
現在の神殿は、慶応2年に大工権蔵により改築され、拝殿は御大典記念として、大正4年に改築されている。
鳥居篇額は海軍大将、東郷平八郎の筆によるものである、なお、拝殿前にある大公孫樹(大イチョウ、小松市指定文化財)は、山崎高五郎の家臣が植えたと伝えられている。
(山崎高五郎は城山が山崎城と呼ばれていた頃の党首である)
境内の説明書き表示を要約すると
大杉神社の大イチョウ、小松市指定文化財
この大イチョウは推定樹齢450年(1969当時)で、地上4.5mのところより5大幹に分岐しこの部分は特に太く、このところに数十本の乳柱(ちばしら)が蘇生している、乳柱の長さは、2m、1m、40㎝などがあり見事である。
実測によれば、根元の周囲8m、地上1.5mの周囲で5.4m、樹高36mとなっている。
乳柱(ちばしら)が見事です、乳柱は気根と云って、勢力が旺盛な木に多く出るようです、地に着くと根が出て主幹が何らかの事情でなくなった時に取って代わるために樹木が備えているのです。
大イチョウと共に観たかったのは、拝殿の柱や欄間に施された彫刻です、神社の由緒によると慶応2年と大正4年に改築されている記録がありますが、この彫刻はどの時代のものか分かるような文献は見られませんが、素晴らしい彫刻を現在に伝えた彫刻家や大工の棟梁の業には感服します。
狛犬の阿形
狛犬の吽形
境内の一角に番持石が展示されていました、昭和59年に三名の方々が初老記念に奉納された物です。
石板に番持石の事が書かれていました、画像では読みにくいと思いますのでここに記します。
この石は”力持ち石”ともいい番持ちの盛んだった徳川時代から明治、大正にかけて娯楽がなかった山村では一日の仕事が終わると神社に若者が集まって力競べをするために使ったものである。
通稱米4斗石とか5斗石とか言われていた自然石でこれほど丸いものを揃えたものは珍しい、今では番持ち石も昔の物語とこの石だけ遠い青春を語りかけているようです。
画像では分かりにくいと思いますが、右から3斗石、6斗石、7斗石、1石石と記されていました。
今の私は見ただけで、ギックリ腰になりそうです、昔の若者は力持ちが多かったようですね。
手水舎
奥城山に登るために登山ルートを調べていたら、この神社の近くから登るルートも有って、この神社の事を知りました。
実際、私が登ったルートはここより下の「蓮如上人お杖の名泉」を通るルートでしたので、下山した帰りに寄りました。
一向一揆の歴史が語り継がれる山里に神道の立派な神社がある事に驚きました、地元の氏子衆によって幾歳守られてきた歴史の重みを感じました。
御訪問頂き、最後までお読み頂きありがとうございます。