能の世界での運歩を「運び」という。
すり足をしながら、つま先が徐々に少しづつ上がる動きだ。
なぜつま先が上がるのか、上がらなくてはいけないのか?
それは人間の歩行の原則だから。
たとえば、あの北朝鮮の軍事パレードでの兵隊の歩行を
思い出していただきたい。
あの一糸乱れぬ動きの中で軍人の蹴り上げたつま先は天を向いている。
歩行の基本を忠実に守っている、
まあ~~あそこまでやらなくても!という声も聞こえてきそうだが、
基本形であることに間違いはない。
人間の足は片方の足が前に出始めると次第につま先が
上がる仕組みになっている。
つま先を上げずに動こうとすると、能舞台では足裏と舞台の板との間に
最後まで摩擦が生じスピードに乗れなくなり、ぎくしゃくした動きになる。
日常、一般には老人や病人はこの動きとなり、見ていて不自然さを感じるのではないだろうか?
能でも老人や精神が異常な様を表現するときは、
故意につま先を上げない運びをすることがあるが、
通常はきれいにつま先が上がらなくてはいけない。
現役時代の父の運びの美しさは忘れられない。
両足とも足の指のバラツキなどなく、それはきれいなものだった。
私も真似したいと思っているが、あそこまでは到底無理
と諦めてしまうほどのバランスのよさだった。
若い人たちの演能で気になるところは
この運びについて認識不足ということ。
能の基本は歌舞。
謡えて、舞えてが基本。
謡い難しいから未熟なところが出ても仕方がないが、
せめて舞ぐらいは基本形を崩さないでほしいなあ。
すり足をしながら、つま先が徐々に少しづつ上がる動きだ。
なぜつま先が上がるのか、上がらなくてはいけないのか?
それは人間の歩行の原則だから。
たとえば、あの北朝鮮の軍事パレードでの兵隊の歩行を
思い出していただきたい。
あの一糸乱れぬ動きの中で軍人の蹴り上げたつま先は天を向いている。
歩行の基本を忠実に守っている、
まあ~~あそこまでやらなくても!という声も聞こえてきそうだが、
基本形であることに間違いはない。
人間の足は片方の足が前に出始めると次第につま先が
上がる仕組みになっている。
つま先を上げずに動こうとすると、能舞台では足裏と舞台の板との間に
最後まで摩擦が生じスピードに乗れなくなり、ぎくしゃくした動きになる。
日常、一般には老人や病人はこの動きとなり、見ていて不自然さを感じるのではないだろうか?
能でも老人や精神が異常な様を表現するときは、
故意につま先を上げない運びをすることがあるが、
通常はきれいにつま先が上がらなくてはいけない。
現役時代の父の運びの美しさは忘れられない。
両足とも足の指のバラツキなどなく、それはきれいなものだった。
私も真似したいと思っているが、あそこまでは到底無理
と諦めてしまうほどのバランスのよさだった。
若い人たちの演能で気になるところは
この運びについて認識不足ということ。
能の基本は歌舞。
謡えて、舞えてが基本。
謡い難しいから未熟なところが出ても仕方がないが、
せめて舞ぐらいは基本形を崩さないでほしいなあ。
去る25日(土)、宝生能楽堂での「能の会」にて仕舞を拝見した
ある方(大先生らしい)の運びは、「つま先が上がる」というよりは、「足指が上がる」という体のものでした。
足指がヒラヒラと上下し、気になって仕方ありません。
見所からは、演者のおみ足がとてもよく見えるので、つい。
お足元ばかり見ている訳ではないのですが。。。
足の指がバラバラにぐにょぐにょ、魚のエイの様に動くのを見ることがありますが、あのようにならないようにと私は心がけていますが~
以前からこの違いが気になっていました。
ところで、新聞は手元に届きましたか?
有難うございます。
お返事が遅くなりまして申し訳ございません。
スクラップにて大切に保管してあります。
私はミネソタ州のミネアポリス在住のもので、 和太鼓を10年ほどこちらでお稽古しております。 この3月に幸運にも日本からのグループの人たちから太鼓や踊りのワークショップを受ける機会を頂きました。 その際に沖縄の男性の踊りでMuribushiというのがあり、 その足運びがお能の足運びととても似ているのですが、
ご存知でしょうか? 日本の先生がいらっしゃるときに聞けば良かったのですが、 今はその先生から10年近くお稽古しているアメリカの先生が教えられていて先日これはお能の歩き方と同じですか?って質問したところお能の歩き方を知らないから分からないって答えられました。
もしご存知でしたら教えていただけると幸いです。 日本を離れて今更日本の伝統芸能の奥深さをほんの少しでも触れる機会が持てて幸せに感じている今日この頃です。 願わくばもう少し早く出会いたかったです。
沖縄の男性の踊りでMuribushiを存知上げませんので、ご質問に答えられません。
ごめんなさい。