今、能という仕事に携わっているが、これは一般的に言う音楽にも通じるものがある。
話は遡るが、昔、小、中学生の頃は音楽が嫌いであったことは以前にも書いたが、高校生になってから音楽を聴くことに目覚めてしまった。日本のレコードよりも海外のレコードを買っては聴き入っていた。レコードを聴くとなるとそのオーディオ機器にも興味がわき、結構なお高いステレオを買ったのを覚えている。私の選んだものは、広い居間にでんと置かれるような家具タイプのものではなく、狭い部屋でも分けて置ける所謂セパレートタイプのものだった。スピーカーとアンプ、チュウナーとプレイヤーをそれぞれに別個に選び、組み合わせて楽しんだ。最初は三点であったが、テープレコーダーに録音編集して聴きたくなり、プロでも使えるような「TEAC(ティアック)」のオープンリールのデッキを買い求めたが、時代はすぐにオープンからカセットデッキに変わり、今度は「AKAI」(赤井)のカセットデッキを購入した。今考えても相当な入れ込みようで、よくお金があった、と今でも不思議だ。自分用に好みの曲を編集録音するのが面白くなると、編集する楽しみが聴くことよりも優先されるようになってしまった。
少し自慢したく友達をわが家に呼ぶと
「さすがに音が違う。柔らかな、透き通る高音とずっしりと響く低音がいい」などと、お世辞だろうが、褒めてくれた。しかし当の本人は正直、音の違いは判らなかった。
同僚に、「スピーカーはオンキョウか山水だね、アンプ・チュウナーはトリオがいいよ、プレイヤーはパイオニヤか、テープデッキはティアックかアカイだから粟谷は正解だよ」なんて言われたのを今でも覚えている。さて、では何を聴いているのかというと、バロックやバッハ、ベートーベンなどの高尚なクラッシックは避け、もっぱらロックや身体を動かしたくなるようなR&B(リズム&ブルース)、そして少し落ち着いてきてエリック・クラプトンから最後はBBキング、バディーガイといった黒人ブルースへと趣味は変わった。だが、この不良青年の行き着いたところは、ユーミンなどのニューミュージックやカーペンターズで涙を流すという軟化の体たらくである。自分でも一時己を恥じたが、しかし直ぐに「好きな曲を聴いてなにが悪い」と完全に開き直ってしまった。
そろそろ能と結びつけよう。
スピーカーも会社によりその繰り出す音も微妙に違いがあり、地響きがするような低音が良いものもあれば、透き通るように高音が響くのもある。
能『石橋』の地謡も同じこと。4月28日、喜多流特別公演で『石橋』(シテ香川靖嗣)の地頭を勤める。『石橋』の同音を謡うということは、地謡の8人の声のボリュームを上げて、息のつめ、ひらきを調整し、単にゆったりだけではない重厚感がなくてはいけない。
今回、この大曲の地頭を勤めることになったが、父から教えてもらった数カ所の謡い方を思い出し、下は何キロも続く深い谷が臨めて、雲の上からは滝の水が流れ落ちてくる、その中心には幅が狭く、苔がついてぬるぬるとして直ぐに滑って落ちてしまいそうな危険な石の橋、そのように想像していただければ・・・と、皆で声を張り上げて謡いたいと思っている。8個のいろいろなスピーカーから8つの音が聞こえ、そこに斉唱という東洋的なものを感じとっていただけたらと思う。種を明かせば、要するに「必死に精魂込めて」という菊生精神を繰り広げたい、というのが本音だ。
これを読まれて特別公演の『石橋』が聴きたくなったという方、申し訳ないがチケットはすでに完売だ。またいつの日か、謡うことになるだろう。チケットの無い方はその時までしばしお待ちいただきたい。
文責 粟谷明生
デジブック 『能 石橋 粟谷明生』