大阪の公演も終わり、ほっと安堵しながら演能レポート『木賊』を書いておりますが、先日の粟谷能の会にお越しいただきました横山英行様からご感想をいただき、皆様にもお伝えしたく、ご本人さまの許可を得まして、ここにご紹介させていただきます。
粟谷明生様
三月三日は、素晴らしいお能を拝見し、感動のうちに帰宅いたしました。
あの日は明生さん自らが受付に出られて、わざわざ手ずから書かれたものを皆さんにお渡しになり、今回の「木賊」にかけられたお気持ちが具に伝わって参りました。
席に座ってから、早速読ませていただきましたお蔭で、このお能の見どころが予めよくわかりました。
木賊を苅るときの所作は言うに及ばず、このお能に臨まれるお気持ちもよくわかりまして、たいへん助かりました。
女もの狂のお能は割とよく見ますが、老いた男の狂いというのはあまり見ず、抑制された表現の中に、老いた男親の気持ちが動くといいますか、観阿弥×禅竹のような、能の本筋のようなものを感じました。子方が一人いるというのも、ひとつの情の雰囲気をつくりだして、良いものですね。また、老爺と子方の衣裳の色の対比も美しく拝見しました。
この度のお能は、「木賊」といい、「巻絹」といい、ともに “狂い” ということを扱っています。これは現代文明ではとかくタブー視されて、言葉として使うだけでも忌み嫌われるものですが、お能の世界では立派に生き生きと活動していて、何かこの “狂い” にこそ人間のまことの健やかさを見た観阿弥の時代の心のようなものが、伝わって参りました。
方や、神がかりのご神託ゆえの狂い、方や老いたる父親の情ゆえの狂いと、性質はまったく異なりますが、この二つが取り上げられたことで、“もの狂い”ということの広がりや奥行きも考えさせられました。
この“狂い”ということを見つめられることが、ある意味で人間の健やかさの証しであり、鎌倉や室町時代の人には、その目があったのだなあと思いました。反面、それを見つめられないことがその時代、その文明にとっての“狂い”も見失うことになるのではないかと、改めて現代をふり返ったことです。
狂言「磁石」も、さすがのお二人の堂々たる芸。現代ではオレオレ詐欺やアボ電、ネット詐欺などという殺伐たる形でしかない詐欺も、室町時代にはこんな形で、逆手に取って笑えるものだったということで、当時の民衆の健やかな生命力が伝わって参りました。
仮に今、オレオレ詐欺を題材に「狂言」を書けぬこともないという気が致しますが、しかしこんなにも大らかに笑えるだろうか? なぜなら室町時代の“だまし”には何処か愚かで隙があるのだけれど、それゆえにこそ賢い。けれど今は、途轍もなく賢くさかしらな時代なのに、それゆえにこそ愚かでゆとりがない…そんな感じがしたからです。いろいろと勉強になります。
素晴らしい春の節句の演能に心から感謝申し上げます。
今後とも益々ご活躍ください。また、演者みずからの解説の一文も楽しみに致しております。
横山英行
写真 『木賊』シテ 粟谷明生
撮影 新宮夕海