粟谷明生のファンと称する方から、
「貴方のやっていることは悪くはないが、もっとお父さんの舞台を真似たらいい」
とご注意を受けたことがある。
他人様からのご注意は素直に受けるもの、と人にはサラッと言えるが、いざ自分のこととなると「はい左様ですか」
と素直になれない。言われた言葉に物凄い反発心が湧き上がる。この「ムカッとする病」は早く治さなければいけないので良い処方箋を捜しているが、特効薬は「加齢」しかない、とイイカゲンな自己診断で済ませている。
父の真似を、と心掛けてはいるのだが、中々早々うまくいかない。
私もつい口にしてしまう
「真似たらいい」だが、
「先代の実先生はこうしていたが、菊生はこう、友枝昭世師はこうだ」
と、息子尚生や玄人弟子の佐藤陽、そして素人のお弟子様にも具体的に言っている。
やきとり屋の秘伝のタレを例えては、いささか焦げ臭く能楽に失礼だが、能の芸は歴代伝わる秘伝のタレをちょいと付ける様にはいかない。そんなことは判っているが、それでも演じ手は、父や先人たちの能を細かいところまで、良きも悪しきもよく見て真似て、それでも時には秘伝のタレをちょいと塗りたくなるもの。そこは判っていただきたい。自分なりの舞台を創ろうとしているのは間違いないのだから。世阿弥は、まずは真似から入れ、と教えている。
さてここからが本題だ。世阿弥の真似は2~30代までの事。40代からは真似だけではない独自の能を創らなければいけないとも説いている。私も50代の半ばを過ぎた、もうそろそろ「菊生のを真似たら…」
から卒業して、粟谷明生の能を観てほしいと、宣言したい。
偉そうに、と言われるが、高知粟谷会のお医者様から、
「あきおセンセ、人類は歳を取れば取るほど親に似るんですわ、そういうDNAがあるんですわ、若い時はちっとも似て無くても、歳取るとそっくりになる、それが人間ですわ、猫や犬、猿と違うんですわ」
と言われた。
この言葉ですべてを許してほしい。
お話は、歌舞伎の世界を描いていますが、芸を真似ること、血のつながった親子、そうでない親子、時間とともに似てくるもの、決して同じにできないもの、また、人々の心の中で勝手にふくらむ大いなる "名前" に伴う偶像、等々、考えさせられます。
答はひとつではないでしょう、多分・・・