能楽・喜多流能楽師 粟谷明生 AWAYA AKIO のブログ

能楽師・粟谷明生の自由気儘な日記です。
能の世界も個人の生活もご紹介しています!

山菜と能

2012-06-11 08:17:40 | 能はこうなの、と明生風に能の紹介
山菜の味わいが判るようになったのは40代になってからだろうか。
あの味わいを判かる子どもは少ないだろう。小学生に「コシアブラのあの独特の苦味がたまりませんね」などと言われたら、大抵の大人は引くだろう。山菜にもいろいろある。



こごみ、わらび、ゼンマイ、こしあぶら、苦味が強いものもあれば、そうでないものもある。あのニガミを克服してようやく40代になって山菜が好きになった私だが、実はまだまだ甘ちゃんで「本当の山菜の味わいは素のままで召し上がっていただくのが・・」には、「あのう・・・お醤油と鰹節を用意していただけますか。出来ればマヨネーズも」とまだまだ初心者の域を脱し切れない。山形県の酒田に稽古に伺うと、春になると叔母が山菜を採ってきてくれる。これはもう天下一の味、年に一度の楽しみになっている。



山菜は季節物、年柄年中食べられないから良いのかもしれない。採れる季節が待ち遠しくなる。山菜を好きになれとは言わない。山菜がおいしいよ、と強制もしない。ただ山菜という自然の力を感じるような食べ物があることを伝えたい気持ちが湧いてきた。
この山菜の、時には苦味を伴う深い味わいは、能に似ている。

能はとっつきにくく、見る側に決して親切な芸能とは言えない。
子どもにも能が判るかしら?の質問に、本音を言えば、判らないだろうと、私は答えるようにしている。ただ子どもの方が感受性が豊かなので、なにか感じるものは大人よりあるかもしれない、と補足している。

能はいろいろな経験を経た者が判る高度な芸能だ。「観て感じてくれればそれで結構」などと軽く誘う気はサラサラ私にはない。



山菜同様、食べられる、味わいがわかる、そしてやみつきになる時期がきっと来る、と信じている。その時まで待っていてもいいと能楽師のひとりとして思う。

ただし食べてみようかな~と誘う活動、食べた後にまた食べたいと思わせる活動は大事だと思う。今、素でコシアブラを食べようとしながら、執筆している。

最新の画像もっと見る

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
山菜は手間暇をかけて! (ノビル君)
2012-06-11 13:05:58
田舎に行けば、春の山菜が楽しみです!が、昨年・今年と田舎(栃木県那珂川町)の道の駅でも大震災の放射能の影響下で、販売は自粛です。軍鶏は、茨城県大子町が有名で美味しく、湯葉も蒟蒻、林檎もお茶もなのです。今年の山菜は、フキノトウから始まって、辛し菜、蕗、イタドリ、細筍(今週で終わり!)と小庭と近在でゲットです。田芹や野蒜は車で40分くらいの遠出が必要です^^。秋田からお取り寄せの純米吟醸酒の冷でいただきますと、至福の喜びですね! 那珂川町は、温泉トラフグで町おこし中ですが、店構えはチャチでも、お蕎麦も絶品です^^。山菜には、美味しいお水と愛情が必要ですね^^。PS:日経能楽鑑賞会「隅田川」を拝見しました。地謡方を勤めた感想を是非にブログに載せて下さいませ^^。
返信する
お返事 (粟谷明生)
2012-06-11 14:15:58
ノビル君様
コメント有難うございます。

日経能について書こうかと思いましたが、どうも気が乗らず。乗らない時は、しない!がモットーですので、すいません、ご期待にそえなくて。
返信する
いいですね、山菜 (Yaeko)
2012-06-11 14:23:58
こしあぶらの天ぷらもいいです。こごみの胡麻和え、、と書いていると食べたくなりました。(笑)
旦那様が東北方面出張の折は帰りに山菜を持って帰り天ぷらとかお浸しを(旦那様が)作ります。 私食べる人←古すぎ!
先日の隅田川は「土をかえして今一度。。」の時はちょっと驚きました。それにしてもいつも思いますが地謡はしっかりとまとまって内に力をこめ自在にその力を放出しています。 隅田川は地謡でも泣かせますよね。素敵でした。
返信する
お返事 (粟谷明生)
2012-06-11 14:50:33
Yaeko様
コメント有難うございます。

天ぷら、胡麻和え 付け加えましょうかね。
そうだな、胡麻和えも頂きました。

隅田川は地謡で泣かすのよ
他に泣かす人は、いないのです。

泣かせる、謡い方があるんですよ。
㊙ですが、仲間に教えても、出来ないんですよね、とほほ
返信する
明生師「のってきて下さい^^」(笑い) (ノビル君)
2012-06-11 16:10:31
【劇的に演じることと生になることの境の難しさを痛感するところです。それをいかに表現するかが『隅田川』という曲全体のテーマであり、最初に述べた、能の仕組みの中での芝居心の葛藤となるのです。】とは、41歳での明生師「粟谷能の会」の演能レポート「隅田川」で述べております。其の舞台には子方を出す元雅流演出だったようですが、今舞台は、子方を出さない世阿弥流です。テアトル・ノウでの味方師も元雅流でしたが、梅若玄祥師は、世阿弥流。
第6回日経能樂観賞会は、浅見真州師の世阿弥流との競演です。
今までの少ない観能経験からは、元雅流は、「子方の出来不出来」で、舞台の正否は決定される要素が多いように思いました。また、能楽師たちの作品解釈と能樂師魂の表現技能に関わってきます!それはとりもなおさずに、見所の観客にも言えることですが、もともと生きた時代背景が違う上に、今生はお金を出せば「能」に関わっていられるという、一種の驕りにも似た脆弱な精神性の貴婦人意識がその深耕を妨げているように感じます。
本当の競演とは、ワキ方・囃子方が同一能楽師の舞台だと思えど、現実的には困難なのです。が、舞台正否の結果からすれば、終演後の囃子方の最後の一人・大鼓方が幕を潜る迄、見所の拍手を控えさせた友枝師の有無を言わせぬ、圧巻の能ワールドな空間であった!のです^^。思えば観客は各流派の「隅田川」を毎年度見ることを叶うのですが、個々シテ方の舞台となれば、多くの年を経なればならないというのが現実です。友枝師ですから数多くの地謡頭を担当なさる舞台があったと言えども、自らのシテ舞台には一層の思いが募るというものでしょうか。「百万」「桜川」のように「面白く狂う」事のない曲でのシテ方の凝縮された所作や謡いの起伏や立ち居姿の中に、名曲を名曲たるに仕上げる心身の貯えがあればこそなのでしょうか。子方を出さずに、梅若丸の霊を求めての劇的空間を創りだすには、相当なエネルギーを要求されます。友枝師は、本曲の持つ濃密な演劇性よりも、醸し出す能本来の芸術性に重きを置いたように感じました。未だ(6/8)粟谷明生師の地謡を勤めた感想が、ブログに載っていませんので一層の興味を魅かれるところです^^。(もし、載りましたなら、このレポートに付記して下さいませ^^)
さてさて、作り物の梅若塚が大小前に置かれます。塚の頭は、成長著しい緑の若葉なのです。若き命を亡くした塚にも、生きる若葉の無常の伝えです。
名乗り笛にて、ワキ・欣哉師が帯刀の姿で上り「・・水気に見えて候、・・人々を相待ち渡さばやと存じ候」と地謡方前笛方寄りに座します。今舞台では、ここ見られ来たようなガサツな謡いは消え、本来の調子を戻しつつあるようにしましたが、欣哉師とて、閑師との親子競演になりますので、心してのお気持ちであったことでしょうか。でも、年齢以上の差をどこまで迫っていたかは、推量の域をでません。
次第の囃子で、ワキ連れが上り「末も東の旅衣^^」(隅田川の渡りに着き)と、後には女物狂いがの到着を待ち。ワキ座に座します。
一声の囃子にて腰巻水衣着流し「深井?」(曲見)の面。静かなることこの上なくの歩みにて一の松にて「げにや親の心は闇にはあらねど・・(子の)行方を何と尋ねん」とシッカリと奥に響きます。舞台に上ってのカケリにも、地謡いの謡いが哀愁格調高く奏でます。この曲趣のテーマを生かすも殺すも地謡いの・・と感じていましたが、喜多流各師の高揚感は、当代随一の謡いで、声明念仏宜しく脳裏に響きます。「^^契り変りぬ一つ世の、・・隅田川にも着きにけり」
「のうのう船頭殿、・・」と格調高くも伊勢物語の都鳥を介しての問答に移り、
「我もまたいざ言問わん都鳥我が思い子はありやなしや」と、難波江からの遠い遠い道のりの果ての東路なのです。
 舟に乗り込んだワキツレは、念仏の音を聞きその謂れを、ワキに語らしめます。船頭の語りの中で、じっと聞き入っていた物語の子こそが、はるばる求めていた我が子か!と察したシテは、茫然自失にも手にしていた黒笠をポトリと前に落し、クモルのです。ワキツレ(当時の大衆の代表者としての)に「ただ今の御物語に落涙仕りて・・われわれも念仏の人数に参り候うべし」と言わしめるワキの語りが重要で、ここが閑師だった・・ならと、無い物ねだりでしょうか。
舟に乗せた狂女こそが、塚に眠る子の母親だと知っての「言語道断・・」と棹を捨て「こなたへ渡り候」とそっと背後を支えるのです。母が目の前に立っていることも知らずに、傍の端の墓標の中に眠る子を、
「・・この土を返して今一度この世の姿を・・!」と、ワキの肩を三度となく両手で叩くやるせなさが強く弱く届きます。(友枝師の演出?)
私見ですが、「大事を語る」ワキが帯刀での登場に、単に「世間一般の代表」だと認識していましたが、世の代表者⇒帯刀している者⇒治政者⇒武士(往時の権力者)にも慈悲を持たせる世阿弥流逆説・・の構かと。

見せ所の舞いがない舞台を支えるのは、地謡方の、心入れでしょうか。
「人間憂いの花盛り、無常の嵐音添い、生死長夜の月の影、不定の雲覆り、げに目の前の浮く世かな・・」と相乗の謡いです。ただ泣くよりも弔いをと、船頭よりの鉦を首に下げては、「南無や西方極楽世界・・阿弥陀仏」と鉦の音なのです。望むべくもない乱世に生を受けた名も無くも散った者への鎮魂歌を、弱き者弱きを知り、それ故の救わん心が大念仏に響くからです。それが「狂女」をして、「南無阿弥陀仏」のハレの声に助けられての幻影を導き出すのです。ただ母は、今生の別れに塚の若葉を子の頭に見たてて、愛狂しくも12年もの思いの情を示すのです。
母が知らない縁もない東国の所の鄙人達の念仏心に救いを得て、静かに静かに橋掛からの幕入りです。(で、追体験の不覚にも落涙・・です。)(90分)


返信する
同感 (京都・黒澤より)
2012-06-11 21:37:50
私、今、京都住まいですが、生まれ故郷の岩手県花巻市では 山菜を食べながら、大きくなったようなもんです、今45ですが。今年の春はスーパーへいけば、わらびがあれば内心大喜びでした、それは、喜多流ともご縁の深い、白洲正子さんの名著エッセイ「かくれ里」の中に山菜が出てきたから。白洲正子さんは岐阜の山奥の志野焼の人間国宝、荒川豊蔵をたづね夕食に荒川さんが 道端でつんだ蕨をご馳走になります。今年の春は蕨の煮浸しを口にしながら、この文章を味わっておりました。味とゆうものは、記憶によってまた深くなるものですわね~、明生先生~。 蕨は岩手あたりでは味噌汁の実になりなす。あく抜きがめんどくさいですがね。笑っ
返信する