能楽・喜多流能楽師 粟谷明生 AWAYA AKIO のブログ

能楽師・粟谷明生の自由気儘な日記です。
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7月28日自主公演『夕顔』の地謡を勤めるにあたって

2013-07-26 06:47:28 | 能はこうなの、と明生風に能の紹介
夕顔の上を取り上げた能には『夕顔』と『半蔀』がある。この二曲を比べてみよう。

『半蔀』の作者は内藤左衛門。出生不明の夕顔という女性を白い夕顔の花に重ね合わせ、花のイメージを強調した演出となっている。蔀戸付きの藁屋に夕顔の花が飾られた作物は通常は舞台常座に置かれる。シテは中に入り床几に腰掛けるが、その姿や蔀戸を上げて顔を見せる瞬間の演出は華やかさが表現され舞台効果満点だ。さらに、「立花」の小書がつくと生け花が舞台に置かれ、より豪華な演出となる。観ていて美しさがストーレートに伝わってくる。

一方『夕顔』は作物もなく、舞も少ない。短く儚い人生を嘆く夕顔という人物に焦点を当て、法華経の功徳で救われ成仏するという宗教色濃い作品で世阿弥作と言われている。



『半蔀』はポピュラーでよく演じられているが、『夕顔』は頻繁に演じられることはない。構成が簡素化し過ぎて内容が暗く地味だということも要因だろう。前場は居曲(いぐせ)で型がなく、見せ場が乏しい。後場も序の舞を中心として前後に舞どころ少ない。いろいろ舞いたい、動きたい私としては、やや物足りなさを感じないでもない。もっとも、前回も申し上げたように、このような作り方が、能らしい作りなのだろう。

『夕顔』の小書には、「山の端之出」と「合掌留」がある。「山の端之出」はよく演じられ、私も今回、こちらで勤める。
舞台進行は次のようになる。

ワキの道行が終わり、シテ謡「山の端の心も知らで行く月は、上の空にて影や絶えなん」が幕の中から聞こえる。ワキは「不思議やなあの四阿(あずまや)より、女の歌を吟ずる声の聞こえ候、・・・・・」と応えると、囃子方のアシラヒによりシテは登場し橋掛りを歩む。

今回は「巫山の雲は忽ちに、陽臺の下に消え易く、湘江の雨は屡々も、楚畔の竹を染むるとかや」を、謡いながら出て一の松にて留めようと思っている。

もう一つの小書「合掌留」は型にさほど変わりはないが、序の舞の上げ(最後の部分)の寸法が短くなる。
さて、今週末の自主公演では、『夕顔』(シテ大村定)があり、私は地謡を謡う。
秋田県までは観に行けないとおっしゃる方は、是非ご来場いただければと思う。

写真 『夕顔』シテ粟谷菊生 能・粟谷菊生舞台写真集より 
文責 粟谷明生 

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