能楽・喜多流能楽師 粟谷明生 AWAYA AKIO のブログ

能楽師・粟谷明生の自由気儘な日記です。
能の世界も個人の生活もご紹介しています!

新城能楽社に所縁のある方々へ追悼の気持ちを込めて

2009-03-30 07:22:09 | 粟谷明生の日常
昨日は愛知県新城市の浄土宗・大善寺にて追善能が無事執り行われました。

大善寺は徳川家康の長女・亀姫が奥平家(おくだいら)に輿入れし後に亀姫によって創建された寺です。
ならば~まずはお墓に参り、といことでパチリ!

でも~~~~
ネットで調べてみると、ちょっと気になる記載もありましたが~~~
まあ、それは後ほど記すことにします。

11時に大善寺に到着して、まずは装束の点検や舞台の下見をして、お墓参りも済ませ、昼食を頂きはじまりを待ちます。

番組にある十名の物故者のご芳名を拝見すると、
私が生前お世話になりました、鈴木肇様と永田六兵衛様のお名前があり、
いろいろと昔のことが、わき水のように思い出されました。

私が新城に伺うようになったのは、このお二人と昨日も元気で仕舞『枕慈童』を舞われた太田康弘氏(88歳?)のご尽力の賜物です。

ということで番組には、それぞれ所縁の方々のお名前がありました。
能『杜若』のシテを勤められた杉浦史佳氏は鈴木様のご親戚、
小鼓を打たれた永田聡子様は六兵衛様の奥様です。

その他、新城能楽社中と新城明生会皆様のご協力によって滞りなく会が出来ましたこと、屹度あちらにいらっしゃる皆様もさぞ喜んで下さっただろう~と思っています。

会は3時半に終了し急いで新城駅に向かい連絡もよく豊橋停車という数少ない「ひかり号」に運良く乗れて無事3人で帰京しました。

で~~直会は~~
学芸大学駅近くにある、「・・・寿司」で「一日ご苦労様、有難う乾杯!
と、まあこんな一日でしたが、番組と気になる記載は下記の通りです。



追善能 能組

読経

素謡 
『融』 シテ小林寿枝 ワキ鈴木富代 
地謡 竹下京子 永田聡子 今岡アイ子 夏目みよ子 伊藤秀子 太田温子

仕舞 
『玉葛』  シテ太田温子
『枕慈童』 シテ太田康弘

舞囃子
『船弁慶』 シテ中島康夫 
笛 今泉英三 小鼓 森田 収 大鼓 清水利高 太鼓 鈴木崇史

能 
『杜若』
シテ 杉浦史佳
ワキ 竹内省吾
笛  今泉英三
小鼓 永田聡子
大鼓 清水利高
太鼓 中島康夫 

さて、ネットで調べてみますと~~
亀姫は、永禄3年(1560)6月4日、徳川家康の長女として駿河国に生まれ、
母は家康の正妻、駿河御前(のちの築山御前)です。
2代将軍秀忠をはじめ、尾張義直、紀伊頼宜、水戸頼房などは亀姫の弟にあたります。

永禄5年、岡崎城に移り、天正4年(1575)17歳の時、奥平信昌の妻となりました。
同年12月22日、西尾吉次が輿を守って新築まもない新城城へ輿入れしたといいますが、実際は乱世のことであるので、途中で輿を奪われるのを恐れて、これより先の7月に藤尾某が亀姫を背負ってひそかに城に入り、正式入輿のときには空であったともいわれています。

亀姫の新城で暮らしは15年間におよび、その子家昌、家治、忠政、忠明の4男と1女(千姫)は皆、新城で生まれています。

天正18年、信昌は3万石で上州宮崎へお国替えとなって新城を去り、後、初代京都所司代を経て、慶長6年(1601)には、岐阜加納10万石の大名となりました。

亀姫は、寛永2年(1625)5月27日、66歳で加納において逝去。法名を盛徳院殿香林慈雲大姉といい、加納増瑞寺(のち盛徳寺)に埋葬されました。世に亀姫のことを「加納様」とか「加納御前」といいます。

以上、

と、あれ?
新城にお墓があるのは~~~
まあ、いいかな。

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