ひとこと・ふたこと・時どき多言(たこと)

〈ゴマメのばーば〉の、日々訪れる想い・あれこれ

『アスタツ サヨウナラ ○○○』と。

2016-07-21 06:16:42 | 日記
昨年11月にパリで起きた同時多発テロ。
その際に妻を失ったアントワーヌ・レリス氏が、先だって来日したそうです。
氏は、
「ぼくは君たちを憎まないことにした」
というメッセージを犯人に送ったことで知られています。

〈犯人を憎まない〉
これは、なかなかできることではありません。
犯人も、被害者も全く自分の知らない他人であれば、「罪を憎んで人を憎まず」などと、
容易に、口にすることもできますが。

不本意な悲しみは怒りに、怒りは憎悪に、憎悪は復讐となり…………。
やがて、自身の心の自由をも奪い去るものと理解はしていても。

世界のあちこちでテロが起きています。
悲しい現実です。
《テロを憎む》
と、口に出しただけで正義の側に立ったという思い込みもしたくはないし、
とはいっても、他人ごとして、“私に関係ないから”で済まされるわけでもなし。
そんな、堂々巡りの思考に、いささか疲れてきたりしています。

『私の消滅』中村文則 著(文芸春秋社 刊)を読みました。
好きな作家の一人です。
復讐を巡る人間のドラマ。
自分とは何か、私が私であることは自明なことなのか?
読み応えがありました。

著者は、おぞましい幼女殺人事件を起こした宮崎勉に関して、
オリジナルな精神分析を展開しています。
〈あとがき〉で、
  《飼っていた小鳥の生命を奪い、
   埋めてから掘り起こし泣いていた小さな頃の彼を思うと、
   彼のやった犯罪は許されないのだが、
   この世界とは一体なんだろう、と思う自分を止められなかった》
と、記しています。
宮崎勉は、自身に手の障害を持っていて、子供のころから、
いじめにあっていたそうです。

  《…………いじめなどをやり過ごす時や、生きることが辛くなった時、
   それを「他人事」のように感じなければならないことが多々あり、
   それも彼の意識に致命的なパターンとして構築されていただろう…………》
   とも記されています。

私はいじめにあったことは、あまりありません。
でも、大きな悲しみに遭遇した時のことなどを思い起こしますと、
辛さ・悲しさから逃れるために、自分が自分でないように思ってしまうことなどは、
容易に理解できるものです。

『テロを起こす人間は、人間じゃない』
そんな会話も耳にいたしますが、銃を、人や社会に向けた犯人の心には、
悲しみと憎しみが、いっぱい詰まっていたのかもしれません。
たとえ、変形されたヒロイズムの色付けがなされていたとしても。
銃を撃った時は、「自分」でない自分だったのかもしれません。
数多くの人間を殺傷し、自爆、あるいは射殺された「いのち」。
やりきれない思いに駆られます。

72年前の夏、福島県の原発事故があった近くの飛行場から、
『アスタツ サヨウナラ ○○○』
の電文を残して、特攻隊で出撃し、散っていった知人がいます。

敗戦間近の、国策としての死でした。
                                   〈ゴマメのばーば〉
コメント (1)
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