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ひとこと・ふたこと・時どき多言(たこと)

〈ゴマメのばーば〉の、日々訪れる想い・あれこれ

なんとも おぞましい事件

2016-07-28 06:23:18 | 日記
なんとも おぞましい事件がありました。
犠牲になられた方々と、そのご家族のことを考えますと、言葉が出ない思いです。
ニュースなど見たくもありません。

でも、容疑者の非人間性を糾弾して見せただけで、
おぞましさが消失するわけでもありません。
衆議院議長に宛てた犯行の予告・趣意を読んでみますと、
なぜ犯行を防げなかったか、という事もさりながら、
これは、既成社会に対する挑戦状ともいえるような気がします。
たしか、こうした内容の小説がありました。

容疑者の、「障害者がいなくなればいいと思った」との供述。
フィクションはともかく、ヒトラーの行ったことでもあります。
「異常者」「人」などという言葉で済ませるわけにもいきません。
生産性がなく、誰かの庇護を受けねば生きてゆけない者を、
人は、社会はどう捉えていかなければいけないのでしょうか。

生産性の低かった むかしむかし、「姥捨て山」がありました。
現代社会でも、出生前の検査で、遺伝子に異常が見つかった「いのち」は、
産声をあげられない事実も耳にいたします。
「いのち」の共生とは何か、よく考えなければいけないと思います。

ヒトラーは、『わが闘争』の中で、
  《肉体的にも精神的にも、不健康で無価値なものは、子孫の体に 
   その苦悩を引き継がせてはならない。
   国家は、幾千年も先まで見据えた保護者として振舞わなければならず、
   個人の願いや我慾などは、なんでもないものとして、諦めるべきものである》
と言っています。

ナチスの虐殺に異を唱えたフォン・ガーレン司教は、
  『貧しい人、病人、非生産的な人がいて当たり前だ。
   私たちは他者から、生産的であると認められた時だけ生きる権利が
   あるというのか。
   非生産的な市民を殺してもいいという原則ができ、実行されるならば、
   我々が老いて、弱った時、我々も殺されるだろう。
   いま、弱者として標的にされている精神病者だけでなく、
   非生産的な人、病人、傷病兵、仕事で体が不自由になった人すべて、
   老いて弱ったときの私たち全てを殺すことが許されるだろう』
と、説教しています。

C・J・エンツラーは、著書『もう一人の わたし』の中で述べています。
  《幼子の最大の力は弱さである。
   弱くて無力だからこそ、両親は世話をし、保護を与える。
   同じように、あなたの最大の力も弱さである》と。

「弱きもの」「力無き者」を、どう受け入れ、
どのように付き合っていかねばならないのか、
自身と関わる事柄として 問われているのかもしれません。
                              〈ゴマメのばーば〉
コメント (2)
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