トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

宇宙戦艦ヤマト 「ありふれた表現」??

2007-01-03 00:45:00 | マンガ・アニメ・特撮
 昨年10月に槇原敬之に対して歌詞が盗作だと主張していた松本零士だが、自身はこんなことをやっていたのか。
 松本零士が近年著作権がらみでおかしな行動をしているとは聞いていたが、例えばこういうことか。知らなかった。

宇宙戦艦ヤマト「ありふれた表現」 著作権侵害認めず(朝日新聞) - goo ニュース

《アニメ「宇宙戦艦ヤマト」に登場する戦艦や人物に似たキャラクターを配したパチンコなどの映像が著作権を侵害しているかどうかが争われた訴訟で、東京地裁は27日、販売差し止めなどを求めた映像制作会社側の訴えを退け、遊技具メーカー側の勝訴判決を言い渡した。清水節裁判長は「宇宙空間を背景に先端部の発射口から光線を発する飛行物体を描いた映像などは、特に目新しい表現ということはできない」と述べた。

 問題となったのは、遊技具製造大手の三共(群馬県桐生市)などが製造したパチンコやパチスロなどに使用された映像。「大ヤマト」のタイトルで、宇宙空間を飛行する戦艦や軍帽を目深にかぶった熟年の艦長が登場する。原告側は「宇宙戦艦ヤマトや沖田十三艦長をまねたものだ」と主張していた。

 清水裁判長は「宇宙を戦艦が飛行することはアイデアにすぎず、著作権法の保護対象ではない」と指摘。宇宙戦艦ヤマトの外観は、艦首に発射口があることを除けば、戦艦大和のプラモデルにも似ているとして、「ありふれた表現だ」と述べた。

 また、乗組員などの人物について「アニメの登場人物は顔や服装などの細部の違いで相当に異なった印象を受ける」と指摘し、著作権の侵害は認められないとした。
(後略)》


 新聞報道には松本零士の名はないが、「大ヤマト」には松本零士が関与している。
 というより、著作権問題で自分の自由にならない「宇宙戦艦ヤマト」に代わる、松本版ヤマトが「大ヤマト」と考えてよいようだ。
 もともと、松本零士の「新宇宙戦艦ヤマト」というマンガを原作としてアニメ化が予定されていたが、それが諸般の事情で頓挫したため、代わりに、「宇宙戦艦ヤマト」とは全くの別作品である、松本零士オリジナルの「ヤマト」として「大ヤマト零号」というアニメが制作されたという。そしてこの作品を三共がパチンコで使用した。この三共を、現在「宇宙戦艦ヤマト」の著作権を持つ東北新社(上記記事の「映像制作会社」)が訴えたのがこの裁判だそうだ。
 以前、「ヤマト車検」の看板を見て驚いたことがあるが、あれもこの「大ヤマト」のキャラクターだそうだ。

 「大ヤマト零号オフィシャルサイト」を見る限り、確かに別作品なのだろう。キャラクターもメカニックも、似ていることは似ているが・・・。

 「大ヤマト零号」のアニメ(DVDで3巻まで出て、中断しているという)の内容については、「ビバ! びでお」というサイトにレビューがある。

 今回の裁判は、三共のパチンコ「大ヤマト」が「宇宙戦艦ヤマト」の著作権を侵害しているか否かが問われたもの。
 「ありふれた表現」という言葉には大変違和感を覚えるが、一応別物である以上、たしかに著作権侵害を認めるには難しいのだろう。
 しかし、どうにも釈然としない。というか見苦しいふるまいだと思う。
 これって、例えば大河原邦男が「ザ・アニメージ」のメカデザインをするようなもんじゃないのか?(古いたとえだが)
 こんなことをしていては、古くからのファンを遠のかせるばかりだと思うがなあ。

 いろいろ調べていると、「きむずか」というブログの「松本零士は自分の作品をパクったのか? 」という記事に、この件について私などよりはるかに詳しくかつわかりやすく書かれているので、興味のある方は参照してください。三共の「大ヤマト」の画像もこちらで見られます。

 この「きむずか」の記事に興味深い箇所がある。


《◆東北新社 敗訴

この敗訴の内容が東北新社にとっては痛いです。

WEB 上では、トンデモ判決のみに焦点が当たっていますが、
判決は、
「ちょっと違うんだからパクリではない」
「SF作品なんだから少しくらい似るだろう」
という主旨ではありません。

西崎氏が「旧ヤマト」の製作者であるか否か。
否→オフィス・アカデミーという会社の製作であり、
西崎氏個人の製作ではない。

西崎氏から譲渡された権利は有効か無効か。
無効→製作会社を差し置いて、そもそも製作者でない
一個人からの譲渡はありえない。

パクリかどうかの審議はおまけです。

遊戯台の回収・損害賠償どころか、権利がないと判決が下りました。
やぶへびです。上告必須でしょう。》


 だとすると、確定していたはずの、東北新社が「宇宙戦艦ヤマト」の著作権を有するということ自体が、揺らいでいるということになる。判決文は読んでいないので、詳細はわからないが。
 今後の松本零士や西崎義展による「ヤマト」の展開にはさして興味はないが、版権問題がこじれると、過去の作品までが「封印作品」になりかねないので、注目していく必要はありそうだ。

 なお、「宇宙戦艦ヤマト」自体の著作権については、これも経緯が大変複雑なようだが、「「宇宙戦艦ヤマト」の権利関係」というサイトがとても参考になる。特にこの中の 「「宇宙戦艦ヤマト」著作者裁判の関連リンク集」は秀逸。

その他参考にしたサイト
ポリスジャパン「日本が誇る巨匠松本零士を巡る噂話 2
ウィキペディアの「松本零士」「宇宙戦艦ヤマト」「新宇宙戦艦ヤマト」「YAMATO2520」の項

重村智計『朝鮮半島「核」外交』(講談社現代新書、2006)

2007-01-02 01:05:30 | 韓国・北朝鮮
 北朝鮮問題のコメンテーターとして近年テレビでよく見る著者の新刊。
 著者は、毎日新聞の元ソウル特派員。その後同紙ワシントン特派員、拓殖大学教授を経て、現在早稲田大学教授。新聞記者の前にはシェル石油に勤務していたという。つまり、根っからの学者ではない。そのためか、著書や、テレビでのコメントを見ていると、言葉がやや軽いような印象がある。そのへんがテレビで重宝される理由だろうか。一昔前なら、北朝鮮問題のコメンテーターとしては慶應義塾大学の小此木政夫や、静岡県立大学の伊豆見元の姿をよく見たものだが、最近では重村を見ることが大変多いと思う。

 本書は、核問題を中心に北朝鮮の現状を解説したもの。要領良くまとまっていて、全体を俯瞰するのに便利。ただ、やや記述が散漫な印象がある。

 94年に金日成が死んだ時、多くの専門家が北朝鮮の体制は早期に崩壊する、あるいは、北朝鮮が戦争を起こすと予測したという。その中で重村は崩壊も戦争もないと唱えていたという。そして、実際に重村の言うとおりとなった。
《なぜ、専門家は判断を間違えたのか。経済と文化についての知識が不足していた、と私は考えている》(p.149)
 実際に重村が正しかったわけだから、そうかもしれない。私は専門家でも何でもないが、やはり当時、北朝鮮は早期に崩壊すると考えていた。それは予測と言うよりも、そうあってほしいという願望が混じっていたのだろう。そして政治的要素のみを考え、経済・文化的要素を軽視していたように、今となってみると思える。その点自戒したい。

 さて、重村は、北朝鮮には当時も今も石油がないとし、
《北朝鮮は、中国とソ連が石油を無制限に供給してくれたから、朝鮮戦争を戦えたのである。北朝鮮には、当初から独自に全面戦争を継続できる石油は、なかった》(p.152)
として、暴発は不可能だと述べている。
 しかし、物理的に近代戦を遂行する能力がないからといって、北朝鮮が暴発しないと言い切れるだろうか。私は、そこまで北朝鮮指導部の理性を信用する気にはなれない。だからといって、何らかの援助によって北朝鮮の暴発を阻止するべきだとも思わないが。暴発には備えつつ、より徹底した封じ込めを計るべきだろう。

 また、重村は、北朝鮮が改革できない理由として、その体制が金日成無謬説の上に成り立っていることと、子が父に絶対服従であるという儒教の伝統を挙げている(p.123。なお、重村は、北朝鮮を「儒教社会主義」の国と呼ぶ)。
 しかし、金日成は晩年、金正日をパージし、国民生活を重視して、農業・軽工業・貿易第一主義を提唱していたはずだ。それに、朝鮮半島の非核化が金日成の遺訓であるとは、現在も北朝鮮が用いる表現である。金正日が本当に金日成に絶対服従ならば、こうした方針を実行すればよいのである。それをしないのは、金日成を崇拝の対象として利用しつつも、結局は金日成ではなく金正日の方針に基づいて政権を運営しているからにほかならない。つまり、重村の挙げている理由は、金正日の心づもり一つでどうにでもなることであり、それ故に改革が不可能であるというほどの問題ではないと思う。

 そういった疑問もあるが、おおむね、北朝鮮に関する記述は正しいものと思われるし、参考になる箇所も多い。
 ただ、それ以外の分野に関する記述に、一部奇妙なものが見られる。

 例えば、かつて韓国経済について、従属理論に基づく批判が展開されたという。そして、
《こうした従属理論は、もともとイマニュエル・ウォーラーステイン教授らの理論に依拠している》(p.102)
という。しかし、ウォーラーステインは従属理論の提唱者ではない。ウォーラーステインは世界システム論の提唱者である。重村は何か勘違いしているのではないか。
 
 朝鮮における儒教の官僚主義と日本を比較して、こう述べる。
《日本では幸いなことに、科挙の制度がなかった。この結果、官僚制が採用されなかった。これが、明治維新を実現させ、近代化を推進できた理由である。ところが、いまや官僚制につきまとう腐敗と「抵抗勢力」に悩まされている。日本は、科挙の制度による官僚制がなかったから発展したという歴史の教訓を、もう一度学びなおすべきであろう》(p.185)
 学びなおしてどうするのか。福沢諭吉が「親のかたき」と言った門閥制度を復活させるのか。
 
《官僚主義は、試験に受かりさえすれば絶大な権限を入手できる封建的制度である。現代国家の民主主義は、選挙で選ばれた人物に権限を与えるのが、基本である。米国の民主主義は、これを徹底している。米国では、選挙で選ばれない官僚には必要最低限の権限しか与えていない》(p.187)
 よく、こうした話題に米国の例が挙げられる。私は諸外国の官僚制に全く詳しくないが、たしかに米国では高級官僚は政治的に任用されると聞く。ではヨーロッパ諸国はどうなのか。おおむね日本と似たり寄ったりではないのか。そして政治的任用がベストとは限らないことは、先の本間正明の問題がまさに示しているのではないか。
 「官僚主義」を「封建的制度」と言い切るのもなんだかなあ。現代日本の公務員試験に中国の科挙と相通ずる部分があることは事実だろうが、官僚制自体は封建制とは関係ないだろう。現代の国家、いや企業でも、主要な組織ならどこでも採用されている制度だ。

 歴史の流れの中で北朝鮮の核実験をどうとらえるべきかという話で、
《新聞は、大きな事件について、その歴史的意味と歴史の方向を、読者に示さなければならない。私は、新聞記者時代に先輩からそう教えられてきた。そうした記事を「(歴史の)流れを書く記事」と、呼ぶ。
 「流れを書く記事」を掲載しない新聞は、報道の責任を放棄している。新聞記者の教養と歴史観、取材力が試される記事だ。》
 と述べている。
 大きなお世話だと思う。新聞は、事実を正確に、また中立公平に伝えることを第一の使命とすべきだ。記者の歴史観を記事に組み込んで、読者を誘導すべきではない。
 共産主義への道こそが正しい歴史の流れだと、あるいはそこまでいかなくても、社会主義陣営に不利な報道は日本社会の進歩を妨げると錯覚した記者たちによって、戦後長い間、北朝鮮の惨状や拉致問題などについて新聞でほとんど報道されてこなかったのではなかったのか。
 新聞やテレビは公器なのだから、雑誌やブログに記事を書くのと同様の感覚でいてもらっては困る。

 先に述べた「言葉がやや軽いような印象」は上記の点にも見られる。
 そういったところが、さして熱烈な反北朝鮮派ではなかったのに、和田春樹から抗議を受けたりする原因なのだろう。
 先の『週刊現代』の蓮池薫氏=拉致未遂犯報道では、早速テレビでこれをあっさり否定しており、物を見る目はたしかなようなのだが・・・。

『お言葉ですが…』復活情報

2007-01-01 18:01:48 | ブログ見聞録
 昨年夏に『週刊文春』の連載が終わった、高島俊男の名コラム「お言葉ですが・・・」が、草思社の「Web草思」で復活するらしい。さらにその印刷物の刊行も予定されているという。
 詳細は三十郎さんの「翻訳blog」の「『お言葉ですが…』再開」を参照。

 出版社のサイトを訪れる習慣はないのだが、これは楽しみだ。
 しかし、あの連載には高齢のファンも多く、インターネットと縁のない方も多いだろうから、そうした方に読めないのは残念な気がする。
 印刷物としての刊行も予定されているというが、その情報へアクセスするにもネットを介さないといけないのだろうし。
 どうせなら『草思』で連載して、草思社から単行本にすればいいのにと思ったが、同社のサイトを見ると、『草思』はもうないんですね。その代わりが「Web草思」か。なるほど。
 各社のPR誌も今後はこうした形態に変わっていくのだろう。