日本人類学会の歴史は、明治17(1884)年に遡ります。学会の機関誌は、明治19(1886)年に『人類学会報告』として出版されますが、その出版前に、明治17(1884)年から明治18(1885)年にかけて、「じんるいがくのともよりあひ(人類学の友寄り合い)」あるいは「じんるいがくくゎいよりあひ(人類学会寄り合い)」が全7回行われています。この記録は、坪井正五郎[1863-1913]により、『じんるいがくのともよりあひのかきとめ(人類学の友寄り合いの書き留め)』として残されており、1940年に東京人類学会(当時)から出版されています。
第3回の寄り合いは、「じんるいがくのとも(人類学の友)」という名称で、明治17(1884)年10月26日(日)の午後1時から、神田一ッ橋にあった東京大学理学部植物学教場で開催されました。この会合には、以下のように10名が参加しています。出席者名は、以下の順で記載され、最後に記録者の坪井正五郎の名前が書かれています。
- 岡田信利
- 澤井 廉
- 白井光太郎
- 宮沢作次郎
- 有坂鉊蔵
- 平山 順
- 神保小虎
- 松島鉦四郎
- 加藤知藤
- 坪井正五郎
発表は、以下の1つが行われました。
- 坪井正五郎「下石神井村石神」
その他、詳細な記録は残されていませんが、白井光太郎が「渋谷白金にて古きもの得たること」を発表し、宮沢作次郎が「あつたやまにて得たる石斧土器」を発表したとあります。また、会の終了後、岡田信利を除く9人で、神田孝平宅を訪ねて「ふるきいしうつわ」を見たとあります。