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世界の人類学者67.ドラグティン・ゴルヤノヴィッチ-クランベルガー(Dragutin GORJANO

2013年08月11日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

Gorjanovickramberger

ドラグティン・ゴルヤノヴィッチ-クランベルガー(Dragutin GORJANOVIC-KRAMBERGER)[1856-1936]

 ドラグティン・ゴルヤノヴィッチ-クランベルガーは、1856年10月25日に、クロアチアのザグレブでカール・クランベルガーとして生まれました。一家は、元々ドイツ出身で、1968年にドイツを出てスロヴェニアに移住し、その後、ザグレブに移住していました。

 やがて、ゴルヤノヴィッチ-クランベルガーは、スイスのチューリッヒ大学に留学し、その後、ドイツのミュンヘン大学に移籍しました。ここで、世界的に著名な古生物学者のカール・チッテル(Karl ZITTEL)[1839-1904]と出会います。ゴルヤノヴィッチ・クランベルガーは、チュービンゲン大学に移籍し、1879年に化石魚類をテーマにして博士号を取得しました。

 1880年、ゴルヤノヴィッチ・クランベルガーは帰国し、ザグレブにある国立博物館地質学部門のキュレーターに就任します。1881年には、民族意識が高まったことから、ドイツ系の苗字にクロアチア系の苗字であるゴルヤノヴィッチを付け加え、さらに本名のカールからドラグティンに変えました。1883年から、ゴルヤノヴィッチ-クランベルガーはザグレブ大学で脊椎動物の古生物学を教えています。1884年には助手に就任し、その後、助教授を経て、1896年には教授に昇任しました。

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クロアチア自然史博物館に展示されていたゴルヤノヴィッチ・クランベルガーが生前に愛用していた机。机の上には、人骨や計測器がのせられている。[1988年にユーゴスラヴィア(現・クロアチア)のザグレブで開催された第12回国際人類学民族学会議(IUAES)に参加した際に楢崎修一郎が撮影]

 1899年、ゴルヤノヴィッチ-クランベルガーは、クラピナで発掘を開始します。この発掘調査は、1899年から1905年まで続けられ、分層法が採用され細かい骨の出土位置まで記録されました。残されたフィールド・ノートには、詳細なスケッチもなされており、9層に分けて発掘を行ったことがわかります。ゴルヤノヴィッチ-クランベルガーは、1899年から1929年にかけて47本の論文を発表し、1906年には『Der diluviale Mensch von Krapina in Kroatien』を発表して、クラピナに関する報告書を出版しました。

 ゴルヤノヴィッチ-クランベルガーは、クラピナの人骨をネアンデルタール人と考えましたが、新しい学名ホモ・プリミゲニウス(Homo primigenius)と命名します。

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クロアチア自然史博物館に展示されていたクラピナ人のレプリカ。[1988年にユーゴスラヴィア(現・クロアチア)のザグレブで開催された第12回国際人類学民族学会議(IUAES)に参加した際に楢崎修一郎が撮影]

 1924年、ゴルヤノヴィッチ-クランベルガーは、ザグレブ大学から引退します。引退から12年後の1936年12月24日、ゴルヤノヴィッチ-クランベルガーは、ザグレブで死去しました。

 ゴルヤノヴィッチ-クランベルガーが研究したクラピナ人骨は、その後、アメリカの人類学者、フレッド・スミス(Fred SMITH)により再研究され、1976年に詳細なモノグラフ『The Neandertal remains from Krapina』が出版されました。また、クラピナ遺跡には、2010年にクラピナネアンデルタール博物館が建設されています。

*ドラグティン・ゴルヤノヴィッチ-クランベルガーに関する資料として、以下の文献を参考にしました。

・Fred H. Smith(1997) 'Gorjanovic-Kramberger, Dragutin (Karl) (1856-1936)', "History of Physical Anthropology: An Encyclopedia, Vol.1"(Frank Spencer ed.), Garland Publishing, pp.441-444.


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