ピエール・ポール・ブローカ(Paul BROCA)[1824-1880][Stewart(1979)p.196より引用]
ポール・ブローカは、1824年6月28日に、フランスのボルドー近郊で生まれました。当初は、エンジニアを目指していたそうですが、やがて、医師である父親の影響を受け、1841年にパリ大学医学部に入学し、1849年には医学博士号を取得しています。
1859年5月19日、ブローカは、中心メンバーとしてパリ人類学会(Societe d'Anthropologie de Paris)を設立しました。このパリ人類学会は、人類学の世界では最古級になる学会です。
1867年にはパリ大学医学部の病理学主任教授に就任し、翌年の1868年には外科学の教授に就任しました。
1861年に、ブローカはある患者と出会います。この患者の死亡後、解剖を行うと、ブローカが予想したように、左脳に傷害が認められました。その後、ブローカは剖検例を増やして言語野が左脳にあることをつきとめ1865年に発表しました。現在、その部位は、ブローカ野と呼ばれています。余談ですが、1874年にはドイツの神経科学者、カール・ウェルニッケ(Carl WERNICKE)[1848-1905]が同様の言語野を左脳に発見し、ウェルニッケ野と呼ばれています。
ブローカは、1867年にパリに人類学研究所を設立し、1876年にはパリ人類学学校も設立しました。また、各種の人骨や人体測定器も開発しています。
1880年7月8日の深夜、ブローカはベッドで眠ることができなくなりました。まるで窒息するかのように、息をつくことができずソファーに横になり、しばらくして息を引き取ります。ブローカは、この7月8日か翌朝の7月9日に56歳で亡くなりました。死因は、脳出血だと推定されています。
ブローカは、フランスにおいて、学会・研究所・学校を作り、フランス人類学に大きな貢献をした人生だと言えるでしょう。ブローカは、ポール・トピナール(Paul TOPINARD)[1830-1911]やレオンス・ピエール・マヌヴリエ(Leonce-Pierre MANOUVRIER)[1850-1927]を育てました。この2人は、後に、フランス人類学会に多大な貢献をします。
*ポール・ブローカに関する資料として、以下の文献を参考にしました。