菩薩は是心を發するが故に、則ち少分に法身を見ることを得。法身を見るを以ての故に其願力に随って能く八種に衆生に利益することを現ず。所謂、退兜率天・入胎・住胎・出胎・出家・成道・轉法輪・入涅槃なり。然るに是の菩薩をも未だ法身と名ずけざるは、其の過去無量世來の有漏の業未だ決斷すること能わざるを以てなり。其の所生に随って微苦と相應するも亦た非業繋なり。大願自在力あるをもっての故なり。修多羅の中にて或は「惡 . . . 本文を読む
「弘法大師から親鸞、道元へは同質的なものの発展を見て取ることができる。弘法大師によれば他受用応化身(仏が衆生を導くためにとる姿)の随機説法が顕教で、自受用法性佛の内証智の境を説くのが密教ということになる。いいかえれば全く形を越えた宇宙そのものの絶対佛がそのまま果てしなき冥想を享受しているというのが毘盧遮那仏の自受用三昧に外ならない。これが密教の根本三昧である。・・・道元の根本的立場もまたこのような . . . 本文を読む
靖国神社九月の社頭掲示「では征きます。陸軍准尉 北村卓夫命 昭和十九年十一月二十八日 モロッカ諸島モロタイ方面にて戦死。二十八歳。広島県出身。いよいよ出発することになりました。明二十八日嘉義(嘉義市は台湾西南部の嘉南平原北端に位置し北回帰線が市内南部を通過)に向けて浜松を発ちます。途中九州の新国原に一泊、翌日は台湾です。それから先は何処の空かは分かりませんが、新しい戦場に向かふ筈です。宛名が変った . . . 本文を読む
今日は俳人加賀千代女の命日です。千代女は、安永4年9月8日(1775年10月2日)73歳で逝去しています。辞世の句は、「月も見て我はこの世をかしく哉」。
千代女は52歳で剃髪、素園と号しますが、此の時の句とされるのが「髪を結ふ手の隙あけてこたつかな」です。髪がなくなったのでそれだけ時間の余裕ができたとの句でしょう。
尼僧となってからは釈教歌ともいえる歌を多く詠んでいます。
『 ふみわけた 情 . . . 本文を読む
今日は俳人加賀千代女の命日です。千代女は、安永4年9月8日(1775年10月2日)73歳で逝去しています。辞世の句は、「月も見て我はこの世をかしく哉」。
千代女は52歳で剃髪、素園と号しますが、此の時の句とされるのが「髪を結ふ手の隙あけてこたつかな」です。髪がなくなったのでそれだけ時間の余裕ができたとの句でしょう。
尼僧となってからは釈教歌ともいえる歌を多く詠んでいます。
『 ふみわけた 情 . . . 本文を読む
天地の恩徳に報いることがひいては自家の運勢を発展させる、ということでしょう。最近自分のゴミ拾いを子や孫がまねしているのを発見して感動しました。
・報徳訓(二宮尊徳「人は天地、親、先祖等無数の恩徳によって生かされている。その恩徳に報いることが報徳であり、人の道である」)
「父母の根元は天地の令命に在り 身体の根元は父母の生育に在り
子孫の相続は夫婦の丹精に在り 父母の富貴は祖先の勤功に在り
. . . 本文を読む
今日は疱瘡流行により宮中で仁王経を読誦せしめています。「日本紀略」天暦元年947(村上天皇)「九月七日戌午、名徳僧百口を屈して紫宸・綾綺両殿において三箇日を限り仁王経を転読せしむ。疱瘡の盛なるに依る也。」「日本紀略」天暦元年六月の項にも「今月以降。皰(疱)瘡多発。人庶多殤。有童謡言(わらべ歌にも歌われたくらい)」とありこのころから天然痘が多発していたことが分かります。 . . . 本文を読む
若し衆生有りて善根微少にして久遠よりこのかた煩惱深厚ならば、佛に値い亦た供養することを得といえども、然れども人天の種子のみを起こし、或は二乘の種子を起こすのみにて、設い大乘を求むことあるも、根は則ち不定、若しは進み若しは退く。或は諸佛を供養することあらば、未だ一萬劫を経ざるも、中において縁に逢いて亦た發心する有り。所謂、佛の色相を見て其の心を発すなり。或は衆僧を供養するによりて其心を発し、或は二乘 . . . 本文を読む
「宇井伯寿・唯心の実践」より「佛教に於いてもっとも重要なる実践は空観であろう。観はいうまでもなく実践を指すに外ならにから、空観といえば如何にも実践にのみ関係してる如くであるが実際は必ずしもそうとのみはいえない。一方に於いては仏教者の実際生活上凡て固執的欲望の対象を厭離する点に関係して進んでは実践的観心の禅定三昧から発達した点を見逃すをえないが、同時に他方においては理論的考察の結果、不変固定の実体を . . . 本文を読む
分別發趣道相とは、謂く一切諸佛所證の道に、一切菩薩が發心・修行・趣向する義なるが故なり。發心を略説すれば三種あり。云何爲三。一は信成就發心。二は解行發心。三は證發心。(覚りを求める道を解説するとは曰く、一切諸仏がかって実現した覚りに向けて一切の菩薩達が発心・修行・趣向するという意味である。この発心には3種ある。1は信心の成就を通じて覚りへ向けて発心するもの。2は予備的な修行道を通じて発心すること。 . . . 本文を読む
復た次に究竟して離妄執には、當に知るべし、染法・淨法は皆な悉く相待にして自相の説くべきものあることなし、是の故に一切法は本より已來た、非色・非心・非智・非識・非有・非無なり、畢竟して不可説相なりと。而も言説するあるは、當に知るべし如來の善巧方便にして假に言説を以て衆生を引導するのみ。其の旨趣は皆な念を離れ眞如に歸せしめんがためなり。一切法を念ずれば心生滅せしめて實智に入らざらしむるを以ての故なり。 . . . 本文を読む
(先に、「我見に二種あり。云何爲二。一は人我見。二は法我見。人我見とは、諸の凡夫によって説くに五種あり。云何爲五。一は修多羅に「如來の法身は畢竟して寂寞なること猶ほ虚空の如し。」と説くを聞いて、著を破せんがためなるを知らざるをもっての故に、即ち虚空は是れ如來の性なりと謂う。」と人我見の最初の第一番目を解説したが次に第二番目以降を説くと)二には修多羅に「世間の諸法は畢竟して體は空なり、乃至、涅槃や眞 . . . 本文を読む
法我見とは二乘の鈍根によるをもっての故に、如來は但だ爲めに人無我を説くのみなれば、説は究竟ならざるを以て、五陰生滅の法ありと見て、生死を怖畏し、妄に涅槃を取るをいう。云何が對治せん。五陰の法の自性は不生なれば則ち滅することあることなし。本來涅槃なるが故をもってなり。(復次に法の実体視というのは、声聞・縁覚という二乗の鈍根の者たちの持つ劣った考えである。彼らは色・受・想・行・識という衆生を構成する五 . . . 本文を読む