続史愚抄 / 延徳四年1492五月九日戌寅条
「九日戌寅 疫病流行 因って大覚寺般若心経(注1)を召して宮中(注2)に於いて御頂礼あり云 抑も京畿諸国大疫し 死者相枕 寛正に云ふがごとし(注3)」
疫病で延徳四年七月十九日には延徳から明応へ改元しています。
(注1) 大覚寺般若心経。嵯峨天皇が大師に勧められて疫病退散のために心経を写経されて霊験を現したことが大師の般若心経秘鍵にあります。
「上表文。時に弘仁九年春、天下大疫す。ここに帝皇自ら黄金を筆端に染め、紺紙を爪掌に握って般若心経一巻を書写し奉りたもふ。予購読の撰に範って、経旨の旨をつつ゛る。いまだ結願のことばを吐かざるに蘇生(そしょう)の族(やから)道に亍(たたず)む。夜変じて日光赫赫たり。是れ愚身が戒徳にあらず。金輪御信力(きんりんぎょしんりき)の所為なり。但し神舎に詣(けい)せん輩(ともがら)は此の機鍵を誦し奉るべし。昔予鷲峯山の寧むしろ)に陪(はん)べって、親(まのあた)り是の深文(じんもん)を聞きき。豈其の義に達せざらんはまくのみ。
入唐沙門 空海上表」
(注2)天皇は後土御門天皇
(注3)寛正年代(1460年代)も飢えと疫病によって寛正2年の最初の2ヵ月だけで8万2000人が死亡したといわれる。