福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

地蔵菩薩三国霊験記 5/14巻の17/17

2024-08-12 | 先祖供養

地蔵菩薩三国霊験記 5/14巻の17/17

十七、        夫婦和楽地蔵の神力に依る事

信州海野(長野県東御市。北国街道海野宿があった。)と云の傍に極りなき貧乏の俗一人侍りける。字を赤石藤次知信とぞ申しける。餘りの事に妻女も無縁の孤独にてあるなり。本は都の人にてありける。夫婦ともに貧にありければ朝夕の煙だに絶え々なるさまなり。當國は別して寒國にてあるに素より重ねの衣も薄くあさましき家居に霜雪の夜月さへて荒れたる軒の板間より漏る光さじぇて涼しく終夜寒になつ゛み風にをそれて心ならず更のふけゆくほどにかぞえけるに漸々天も四更五更(午前2時から5時)になりて寒さ詮方なきあまりに過去の事をぞ悲しみける。されば我等夫婦前世いかなる業にてか此の如き貧賤の身になりけるぞや。夫婦ありとても孤独よりも劣れり。されどもさすがすてがたき縁を堅く結びつらん事よと夫申しければ、女房聞申て申すやう、さればこそ初めより不審なき事哉、過去の因を知んと欲せば現在の果を見よと佛の教へさせ給へば(法苑珠林述意部第一「夫貧富貴賤並因往業。得失有無皆由昔行。故經言。欲知過去因當觀現在果。欲知未來果當觀現在因。」)此の金言を以て思ふに我等二人ながら慳貪の中より出て又貧家に生を受る事明白也。今生は假の宿也、ありとても幾程ぞ。まして未来永々の営みを顧みることをなす暇あらず生涯既にくれなんとす。亦黄泉の闇に迷なまし。今こそ堅くちぎりを結ぶとの玉へども只だ秋の野のすすきかれがれになりて音にもきかず目にも見へざる身と成りてをそろしき閻魔の使に責められて三途の河死出の山路をたどるとき堅き結びも解けやすくして何なる責めにか逢ふべき。何の處にか沈みなんとて涙を流して引きかぶりたる薄帷子を引きはなし床中に居(をき)、唯今あるべきやうに泣き居たり。夫與(きょう)をさまして由無き事を云出して後悔すれどかひぞなし、良久(ややひさし)くありて軒吹く風に傳来て明け方の鐘の声を聞けば女房涙を止めて申しけるは思出したつ事あり。白(もう)さば細かく聞き給へと云へば、夫聞きて何事をか心得ざる事ならんか、さなきだに女は心なき事の由無きうらむまじき事をも怨氣のままに行く習ひなり。怖ろしき事や云出しぬらんと思へども、漸々涙を止めぬるに亦心にさかひなば如何と思ひぬれば、されば傳へ聞く、一樹木の影、一河の流れを汲む事悉く前世の契の致すところなり(説法明眼論「或処一村、宿一樹下、汲一河流、一夜同宿、一日夫婦、皆是先世結縁」)況や夫婦の配合十四年同じく貧道に落ち俱に飢寒をしのぐ、何事をか背くべき日月此の如く侍るに今更角(かく)は、と答ければ女房、嬉しく思て申して云く、古へ都にて或説法を承るに地蔵菩薩の供養を乞ひ奉るに其の供養の文は、津國や難波の浦のよしあしに至るまでも地蔵薩埵の御誓にもれたることはなし、されば難波の事を祈申し給ふとも空き事あるべからず。中にも都史多天の弥勒天降玉ひて浮世の祈りける人に示し玉ひけるは、日は入り月はいでざる世の中に地蔵独りぞ世を照らします。と佛だも如是に示し玉へば末世の独尊とは此の佛の御事なるべし。上にはすべらぎの玉の臺の御内より下は此の如き賤しの藁屋にも此の大聖の御恵みにもれたる人やある。今生にはのぞみ足り後世には無垢成佛の縁となり玉ふべし。返す々すも能く此れに帰依し給ふべしと供養し玉ふを我等真に尊く念じ奉りき。此の間の世のあさましきにつけても図らざるに忘れ奉るなり。今より後は他念なく地蔵菩薩を祈念して御身と我が身二人一つ心に成って、我が身をこたりし時しあらば御身勧め玉へ、御身の忘れさせ給ふときは我方よりをどろかし奉らんと申しければ、夫心安くうれしくて委曲の談話心得たりと約束堅くこめて、互いに寶号を唱へ奉りける。同じくは本尊一躰を安置し奉りたきと願ければ或山寺の傍より御長三尺の像を設け奉り喜ぶ事あぎりなし。旦夕此の像に向ひ奉りて行業二三年になりぬ。然るにいつとなく世を渡るさまの優(ゆたか)になりて心中も楽しく覚けり。弥よ信を盡し倍々唱名怠る事なし。此の如く積功累徳してければ無双の富貴に轉ぜり。是則ち菩薩の靈徳化儀の利生にあらずや。滅罪生善の方便にあずかるものなり。爰に富んで驕らざる者はすくなく、貧にしてへつらはぬものはなし。是皆凡心の常なり。然るに同國に浅間と云ふ所に彼の人私領を設け知行しけるほどに所務のために常に罷りて見けるに彼の所は片山がりて地景も面白くをのずから住みける海野の館には勝り栖よかりけるほどに新造を構へすまして木曽次郎義房と申しける人の息女、美人の由を聞き及んで縁になるべき由を云入れたりければ高福の人なりと傳聞きけるやらむ、子細にをよばずうけがひける。やがて迎とりて最愛しつつりし。彼の女房廿四日に生れぬればとて字を地蔵御前とぞ申す。年は十六歳の由なり。誠に寵愛比する事なく片時ところを去らぬほどの事なれば。さしも同穴の契りをなす海野の女房の方をのずから等閑にぞなりぬ。又秘事だに壁の聞きある世の習、具さに始末を聞きて会者定離のことはり假令我 壯歳(壮年)比だも 我が身一人にかぎるべからず、況や四十(よそじ)の頂もほどちかくなん入る身の争(いか)で怨む事のあるべき。自今已後は弥よ地蔵を深く念じ奉りて真の無我の郷に入るの方便を示さるると観念して新に一間を営みて尊像を禮拝して念佛口唱の外他事無事ぞありけるに、佛の御面相をつくつ゛くと見奉りて不図心中に彼の地蔵の御事を思出すにつけて何となく散乱心に引き入れらるこそ天魔の所為ならんとぞ覚ゆ。さればねたむ心の盛になるにしたがひて彼の後連の女房の名を地蔵御と申す事を思ひいずればくやしくて南無地蔵と申す事も否(いや)なることに思ひけるがさればとて日比(ひごろ)年比(としごろ)念誦し奉るを無下にして果事罪障の程をそれ随分香華灯明ばかりまいらせ、閉口して居んと思案しけるが徒に口をつぐんであらむもいかが責めて南無佛とこそ口唱せんとて地蔵の二字を略しけるが是も心もうちつかずいかがせんと思煩ひたりしが、我が身ながらも女は如是の心乱にあひぬれば其れを夫ならひ、所詮人を語ひて異聞を聞かばやと思立て使を遣りて近隣の老者のさるめかしき人々を三餘人請ず。何事やらんと急ぎて参り集まる、奥の室に招て先つ゛酒をすすめて申すは平生の打語事も侍らぬ衆中になれなれしき事を申すも虚恥ずかしく侍れども女の身の迷のみ多く理をいたきなきながら理に迷ひたる我なれば各々の事御中をたのみまいらせてこの大事を究めたく侍るによりて是まで請じ来り。片原痛き事に思召さんなれども我が夫の今まtyプ愛の名を地蔵とかや申す悪心(にくむこころ)あればこそ名聞だもやすからぬ心ありて年月久しく信じ奉る御佛の名号と同じければ佛の名号を唱へ奉ればにくきものの名と存じてねたましく侍れば、打ち捨て名号をも唱へずありしが、さすがに何とやらん口唱を俄かに止め侍るもをそろし、いかがして此の障りを除き侍らん、と云へば、宿老の中に一人進で申すは、尤の事どもなりされども佛は久遠劫よりつかせ給ふ名号なり。然るに人間はかたどりて假につくなり。たとひにくしとをぼしめすとも別の人とをぼしめして前の如く名号を御唱あるべし。此の國の習必ず忍び難きことをしのぶ國の風なれば堪忍世界とは申す也と申しけれども中々心に入りたる顔にあらず。又一人の入道五十ばかりなる人のさし出て申す事には最前のこと承りとどけ侍れどもさやうの事にては御合點(がってん)なきはずなりと瓶子(へいじ)一具地蔵の御にたてさせ、家主の古えぼしを請ひ出して此の入道頭にいただき佛の御前に伺候して申して曰さく、衆生済度の方便には奈落の底に入り玉ひ利益衆生の日は毛を着、角を頂き給ふ。

悉く利益門なれば假に入道がえぼし子にならせ玉へ、是は常の礼儀にはかわるべしとて佛を三拝し奉りていただき引き入れたりけるえぼしをぬぎて、是は藤次殿の故(ふる)のえぼしなり。きせ奉らんと申して佛の御頭にきせたてまつり御名を藤次の名に片取りて藤次大菩薩と申すべしとて呼奉りて三拝けり。女房心にあいたる由にて此の異見にぞ同じけるが其れより以後は一向に藤次大菩薩とぞ申しける。然るに此の事あさまの夫は夢にもしらずありしが或時の夢にけだかき御僧の頂に故(ふる)きえぼしをきて誠に思い入れたる知識にて、そもそも我は昔本覚の如来たりしが闡提救世の門に趣きて三途の巷に沈淪する衆生の為に身をすつれどもいかにも正覚ならんとこそ思ふに、汝がために法躰に俗冠を着せ改めて俗名を付ば是汝が與る所なり。汝は先生にも罪根重くして其の根果現在に報ひ貧道に沈む。我が心力をつくして貧を轉じて福をあたう。汝志頗る邪曲なり取り返さん事頓の事ならんと言と思ふに驚き覚へぬ。さていかなる事の夢あんらんと案じけるに斯の如くの信を発すも海野の女房の勧め故也。且亦貧苦を免れ富を得ること、元来地蔵尊の御加護に依る。然るに由無き女に意を奪れて温故知新の理を忘却す。現當の二理に違うふと急ぎ海野の宿所に皈りて見れば中々我が住し時よりも優に何の不足なきありさまなり。さすが中絶久しくなりければ左右無く指入りなんこともいかかがと徘徊して居りしが日ごろの持佛堂に参りて本尊を三拝して御影像を見奉れば、我がぬぎし古きえぼしをきせ参らせ内に女房の音にて念佛するを聞けば南無藤次大菩薩永離三悪道とぞ廻向しける事いはれはしらねども未だ我を忘れず。元より信を捨ずあればこそかやうには致すなるべし。如是の貞心を照鑑あそばされつらん夢の御告げのほど有難し再び浅間に皈るべからずと覚へず高声に名号を唱へぬれば内より聞き付けて何者なれば狼藉卒爾に入ぬべき所にあらずと云て障子を開けて見れば夫にぞありける。思ひもよらぬ事なれば言もなく障子を引いて入んとするを夫、事延びてはあしかりなん、さしも心あさかりし事を思い出して追いつきて云やう、後世なんど祈る人の行迹はさやうの者にはなきと云て種々の問答を設けて終に本の家主にぞ成りぬ。見聞の人々是則ち薩埵應化の利生也、本来済度の恵弥よ有難き御事なりと信じ奉り此の靈像現在し玉ひ俗に媒人(なこうど)の地蔵と云ふ。

地蔵菩薩三国霊験記巻之五終

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