福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

後花園天皇も飢饉時に足利義政を御指導

2024-06-26 | 法話

後花園天皇も室町時代の飢饉で足利義政を指導されています。
第百二代後花園天皇は室町時代・応永二十六年(1419年)~文明二年(1470年)。北朝・崇光天皇の曾孫。
長禄三年(1459年)旧暦8月に台風が直撃し、賀茂川が氾濫して多数の家屋が流出し、数え切れないほどの死者が出たほか、飢饉がより深刻化した寛正二年(1461年)には、大量の流民が市中に流れ込み事態はより悪化した。同年正月の京都にはすでに乞食が数万人いたとされ、この年の最初の2か月で8万2千もの餓死者が出ているといいます。
こうした中でも
奢侈に耽る生活を続ける室町幕府八代将軍足利義政に天皇が以下の詩を贈って諫めたことが『新撰長禄寛正記』の『主上御詠詩之事』にあります。大意は「春の頃より、天下は大飢饉になり、その上、悪疫が大流行し、世の中の三分の二が餓死してしまった。そのため、骸骨が大通りに滿ち、道を行き交う人はみな憐れを催した。それでも、時の將軍・義政公は、長禄三年二月に造った花の御所を寵愛すること甚だしく、山水草木の造園に人民を日々使い、国の飢饉に心痛めることなく、あまつさえ新殿を造っている。そのことを後花園天皇はお耳にされ、足利義政將軍へ御製一首(この詩)を賜った。將軍家は、この詩を拝して、大いに恥じ入り、新殿の造営を停止なされた。誠に君主も君主として立派なことであり、臣下も臣下としてよくできていると、世人は感服している。」

『新撰長禄寛正記』
「同年ノ春ノ比ヨリ天下大キニ飢饉シ又疾疫悉クハヤリ、世上三分二餓死ニ及。骸骨街ニ満テ道行人アハレヲモヨヲサズト云コトナシ。然ドモ時ノ将軍義政公ハ去ル長禄三年二月花ノ御所ヲ作リ、是ヲ御テウアイ有。山水草木ニ日々人民ヲツイヤシ、水石ヲ立ナラベ国ノ飢饉ヲアハレミ玉フ事ナク、アマツサヘ新殿ヲツクリ立ラル。其比ノ帝王〈御花苑院(後花園天皇)〉是ヲ聞召テ将軍ヘ一首ノ御製ヲ給。
「 無題
残民争採首陽薇(残民 争ひ採る首陽の薇。死に瀕した民が争って首陽山の薇を採っている
處處閉廬鎖竹扉(處處 廬を閉じ竹扉を鎖ざす。到る処で、牆を閉ざして、竹の門扉を閉ざしてしまっている)
詩興吟酸春二月(詩興し吟は酸なり春二月。詩を作ろうにも春を傷み悲しむことしかできないのである)
満城紅緑為誰肥(満城の紅緑 誰が為にか肥ゆ。京に満ちる紅緑は誰が為に咲いているのであろうか。春の花は将軍の為のみでなく万民に隔てなく咲いているのである。将軍も謙虚に万民の為を思うべきである。)」
将軍家是ヲ拝見有テ大ニ恥サセ給。新殿造営ヲ留玉ケリ。誠ニ君モ君タリ臣モ臣タリト世挙テ感悦シ奉ル。」

なお後に後花園天皇は応仁の乱の責任を感じられ出家されています

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