-写真の部屋-

奥野和彦

1月12日 文章のリハビリ

2020-01-25 21:51:44 | 写真


自分の一生に起こる事を写真と簡単な文章でここに記す
という事に決めて続けているものだから
これを書かない訳にはいかない。
が、すぐには書けなくて
書く時間もなくて、書く頭にもならず
写真は仕事以外で撮っていない。

正月、1月2日にパートの仕事に自転車で行く途中のウチの奥さんが
車とぶつかって救急車で病院に運ばれた。
救急隊の話では、呼びかけに頷きはするものの
言葉は話せない状態。
運ばれた病院に脳神経外科の先生が当直でいてくれたのが
不幸中の幸い。
頭を強く打ち、その晩は命の危険がある事を
医師から言われたが、幸いにして命は取り留めた。

病院に着いて処置をしてくれた先生に
見せられた妻の姿は
右耳の後ろあたりを野球のボールぐらいに丸く
刈られてその直径に等しく縫われていた。
ICUのベッドにその頭と、
丸まった白い背中の背骨だけが見えて、
あとは青いシーツがかけられて
死んでいるのかというぐらいに見える弱々しさだった。

救急隊からスーパーの袋に入れて渡された
妻が着ていたコートのフードには血が溜まっていて
洗ってもう一度着られるものでは無かった。

仕事のある日以外は、必ず病院に行った。
初めの10日ほどは、私や息子の事を認識は出来ても
なぜ、そこに寝ているのか、私たちが何をしているのかが
分からず、事故に遭ってあなたは入院しているのだと
言っても理解が出来なかった。
20分もその程度の会話をするだけで疲れてしまい
話の途中でもプイっと背中を向けて急に眠ってしまう。
次の日に行っても、昨日の事は覚えておらず
また、同じ質問と同じ会話をして、また眠ってしまう。
頭の怪我というのはこういうものなのかと。

自分の置かれた状況が分かっていないので
点滴と導尿管が理解出来ず
夜中にトイレに行こうとして
ベッドから落ちてまた、頭を打ったか?
と看護師を困らせる夜もあった。
日記帳が染みているのはその時にそばにあった
お茶をこぼしてらしい。

息子たちはよく頑張ってくれた。
卒業論文を控えている長男は私に同行し病院の往復を。
次男は学校もアルバイトもしながら
3食を出来る限り作ってくれた。
手伝いに行くよ、とか面会を、とか周りの人が
言ってくれたが、家内がそういう状態であって
人と話すのがかなり疲れるようだったので
親戚にも親にも、申し訳ないが暫くは面会を待ってもらった。

自分たちも緊張が張り詰めていて
ここで誰かと接すれば、遣わなくて良いといわれても
どうしても気は遣うし、それはまた疲弊を生むし
そこから何かめげていってしまいそうで
お気遣いには 申し訳なかったが自分たちで
突き進んでかっ飛ばして乗り切りたかった。
子供たちが夜寝つけていないのも分かっていたが
不貞腐れもせず、黙々と頑張ってくれた。

でも、声をかけてくれて励ましてくれた方には
感謝しております。
失礼をして、申し訳なかったと思っております。
ありがとうございました。
野球も全く行けなくなって
スタッフには負担をかけ、申し訳なく思っています。

入院したのは
昨年の夏、ナイター試合に呼んでもらった
あの球場の外野の向こうにある病院で
窓から子供たちが野球をしているのを見て
ナースに「昔、うちの子供たちがここでね、」と
話をしたそうだ。

外傷が癒えて、
とりあえず何とか歩けるようになった所で
病院を出されて、
本日退院となって、ここに記すが
実はこれからが長い闘いになる。
人には見えないところ、
脳に負った傷、耳の奥に負った傷
不安と、めまいと、痛みを
ほぼひと月ぶりの布団の中で耐えている。

こんなことを書いて
自分もおかしくなっているかも知れないが
おかしくなっていることも含めて
そういうブログだから、それも記す。