残念ながら仕事もちょっとヒマなので
ローカル鉄道のサイトを漁っている。
個人的な視点で撮った素人の(プロでないだろうと
いう意味です。)写真のホームページ。
中でも、廃線になっているけど自分の年齢で
知らない事も無い地方の鉄道のもの。
車庫で車両を写そうと思って撮ってあるが
後ろの電器屋の広告が目立っていたり
観光案内の看板のロゴに魅かれたりして
非常に興味深い。
自分の記憶にかすかに残っているようで
定かでない時代の情景はもう一度見たい、
解き明かしたいと思っていても、カッチリ
キチッと撮られたものを見てしまえば
一瞬はっきりと懐かしいかもしれないが
単に照合が合うだけのもので終わってしまう。
やはりどこかの知らない誰かが
気まぐれに撮った 気を抜いた1枚ぐらいの方が
朧げな記憶と、そのつかみ切れないもどかしさ、
曖昧さにおいて 却って心は揺さぶられる。
「何でこれを撮ったの?」
「どうしてこれが気になるの?」
人の視覚なんて、見て理解、認識する事柄より
通り過ぎて、流れて行ってしまう事柄の方が
ほとんどなのである。
完璧ではない。が、勝っている。
問題はある。が、勝っている。
が、勝利の女神はグラウンドばかりでなく
トイレでも、自転車置き場でも君たちのすべてを
見ていると思いなさい。
私たち大人もそういうことで失敗はしてきたから
もう、いちいち言わないけれど、つかみかけた栄冠を
握りしめるも、手から離すのも君たち次第。
時に掴み損ねるのも、金メダル以上に大切かも知れない。
先々週の大会で優勝し、2人の投手による
公式戦5試合連続完封は今日6試合目を記録し
午後からの7試合目で1点を取られた。
試合には勝ったが、そのピッチャーは悔しくて泣いていた。
のが、まあ成長だろうか。ふてくされたような態度が
玉にキズ。選手全体に言える。
一回前にはじいた内野ゴロを「だめだ」と自分で
決めてしまった後に、拾って投げる。間一髪で間に合わず
ランナーを出す。ああ、もっとすぐに拾って投げれば良かった
と済んでから後悔する。打っても同じ事をする。
打った打球がショートの正面に転がる。ダメだと決めつけて
1塁への走るスピードが落ちる。ショートがファンブル
したのを見てもう一度スピードを上げるが、間一髪でアウト。
なかなか出られない子の事を考えたことがあるのかな。
そういう子だったら、或は死にものぐるいで走ったんじゃ
ないかな、とか。
市内49チームが、7組のブロックに分かれて
春から秋までの間に総当たりのリーグ戦をし、
各上位2チームが出て来て始まった決勝トーナメント。
2年前と同じ事を書くけれど、1年間鍛えられた
6年生が越谷の優勝をかけて戦う最後の大会。
来週、越谷市民球場にて準決勝、決勝。
信号待ちをしている最中にいい具合に
朽ちかけている家屋があったので、車の窓から
1枚撮る。
「何でも壊れかけたようなものを撮ればいいんじゃ
ないのよ。もうちょっとテーマを絞るなり、
もっときちんと被写体とも向き合って…云々」と
助手席のカミさんに言われて、その通りだと思う。
わかっているさ、と思う。撮りながら、どうせ
使わないコマだというのもわかりきっている。
カミさんは、もちろん良かれと思ってのアドバイスである。
ひとつ、言い訳をすれば壊れたものを撮ってるんじゃ
なくて「撮りたいもの」を撮ってるんだけどね。
でも、自分でも先日来ボロッちいものと言っている。
が、これが、まさに決定的な縮図なのである。
オレは「撮りたいもの」を撮っている。
でも、人から見ればうら寂しい、古い物や情景を
選んで撮っているだけに見える。
うら寂しい事や物が好きなのかというと、そうではない。
きっと「古いとか新しいとか寂しいとか、
そういう物や事を撮ろうとしているのでは、ない。」
では何なのか、要はこれをはっきり表出させられれば
いいワケである。
ところが、ここまで来て、いつも言葉に詰まる。
言葉に置き換えられないけれど、何か漠然としては、ある
「感覚」で、それが何かを作ろうとしている自分の核なので
あるとも思っている。こうして静かに考えていると
だんだん解って来るのは「何か」を撮って見せようと
してるのではないということ。
こうすると(撮ると)「何が見えて来るのか」を解ろうと
知ろうとし続けているのだ。だから、被写体はきっかけに
すぎないので何かが表出してくるまで、100でも
1000でも気になったものは撮るだろう。
その事を的確に示せないから人はおろか、自分さえ
納得させる事が出来ない。
写真になる事で見えて来る、もう一つの世界 と
仮に言葉で言うとすればそんな感じか。
それも使い古された言葉であって、何かもうちょっと
違う言い方は出来ないのか、と思うけれど。