figromage

流出雑記 

2015/9/26

2015年09月27日 | Weblog

夜行バスで新宿。どうせ寝られないなら出来るだけ全身の力を抜いて寝ているのに近い状態でいようと、口の中や舌まで力が抜けるよう心がけ、そうしているうちに少し意識がなくなった時間があった。新宿西口。バスの利用者が休憩や身支度に使える場所がバス停近くの雑居ビルあってそこに行こうとしてさっそく迷う。飲食店の多い裏通りはちょうど昨夜出たゴミを回収するトラックが回っている時間帯で、生ゴミのにおいの間を行ったり来たりして、マップで見ているのに2回くらい通り過ぎていた。それで遅れをとったから同じ時間帯に到着したバスの女性客でパウダールームは18人待ちとかそんなことになっていた。土曜日なので利用客が多い。でも朝早過ぎる時間に当て所無くほっつき歩くのが何より疲れるので、待つものがあるくらいの方が朝はいい。抱擁家族を読みながら30分くらい待っていたら順番がきた。30分で鳴るタイマーを渡されて空いている鏡台に座る。ストレートアイロンで髪をまっすぐにしてアイドルみたいなフレアのミニスカートをはいている女の子たちは何かのオーディションで来ているのだろうか。巻き髪を作り懸命にまつげをあげマスカラを丁寧に塗りつける、前や後ろの人のやっていることをちらちら見ながら髪をさわらなくていい私に30分は余る。

急いでいないときはマップを見ないで適当に歩けば何か見つかると過信しているので、歩く嗅覚にまかせていると地下のルノアールを見つけた。空いていて適度にもてなされる感じがあるのがいい。コーヒーを頼むと60円でトーストとゆで玉子が付いてくるところもいい。とりあえず見たかった春画展を見に行く。最寄り駅は雑司ヶ谷という全然知らない駅で、この最初の雑をざつと読んでしまって毎回ぞうしがやという本来の名前にたどり着けない。雑をぞうと読むことに不慣れだからで、ざつと読んでしまわないために最初に雑巾を思い浮かべれば苦もなくぞうしがやと読めることに今気付いた。

永青文庫という会場まで駅から徒歩20分。あまりおもしろみのない車通りをひたすらまっすぐ。街路樹には金木犀が多くまだ5分も咲いていないけれど、だいたい絶えず金木犀のにおいがしている。日本女子大学を通り過ぎ、運動公園を通り過ぎ、少し路地に入っていくと目的地は一緒だろうと思われる人の流れがあった。

そんなに広くない会場の4階から1階降りて行く順路。予想以上に混んでいる。男女比は同じくらいで50代~60代くらいの人が多いけれど20代の女の子やカップルもちらほらいて、若い女の子は、お腹でてるよね、昔の女の人太ってたんだねと話しながら見ていたり、みんなガラスケースの中のあぶな絵をほほうと真面目な顔で眺めている。私もそういう顔で見ていた。これをどうやって描いていたのかが気になっていた。遊郭に行って見ながら描いたという説もあるらしいけれど、体の大半は着物で隠れているものが多く、時々肌の色を変えてあるものがあるけれど、あまり顔以外に男女の体の描き分けがされていない、そのためか性器が誇張して描かれる傾向にあった。それで思い出したのは陰翳礼讃の、常に着物で生活していた頃の生活について書いているところで、

「私は母の顔と手の外、足だけはぼんやり覚えているが、胴体についての記憶がない。…それで想い出すのは、あの中宮寺の観世音の胴体であるが、あれこそ昔の日本の女の典型的な裸体像ではないか。あの紙のように薄い乳房の附いた、板のような平べったい胸…何の凹凸もない、真っ直ぐな背筋と腰と臀の線、そう云う胴の全体が顔や手足に比べると不釣合に痩せ細っていて、厚みがなく、肉体と云うよりもずんどうの棒のような感じがするが、昔の女の胴体は押しなべてああ 云う風ではなかったのであろうか。…そして私はあれを見ると、人形の心棒を思い出すのである。事実、あの胴体は衣装を着けるための棒であって、それ以外の 何物でもない。…闇の中に住む女たちにとっては、ほのじろい顔ひとつあれば、胴体は必要がなかったのだ。…極端に云えば、彼女たちには殆ど肉体がなかった のだと云っていい。」

春画に描かれている女性の体は棒のようではなくちゃんと肉付きは感じられたのだけれど、つまり豊満な胸とか引き締まったウエストとか丸みを帯びた腰のラインといった女性の体つきというもの自体は当時の日本ではあまり欲望を掻立てる材料にならなかったのではないかと思う(それ以前にいま書いた女性の体型の美しさも西洋基準のステレオタイプと言えるが)むしろ手足のほうがよほど色っぽく描かれていて、この展覧会を見に行ったのも永青文庫のサイトのトップに表示された鏡に写る足の絵に惹かれたからだった。手足と着物の重なった図柄や着付けと髪の乱れた様子、そのなかで体の比率より大きく誇張されて描かれる性器は醜美で言えば醜に属するというか、異様な塊が絵のなかに隆起し、露出しているように見える。体に寄生している妖怪のような、どこか不気味な見かけをしていて、実際性器の形を組み合わせて顔にした妖怪の戯画みたいなものもあった。今のような医学的な説明がなかった頃の生殖器が持つ印象は、他の体の部位とは違って明らかに硬さや形が変わったり、月々出血する、手足のコントロールとは管轄の異なる奇妙さを持った部位だったんじゃないだろうか。中世ヨーロッパでも、ヒステリーの病因は体内を子宮が動き回るためと考えられていて、患者に異臭を嗅がせて体の上部に上がってきた子宮を元の位置に戻すという治療法が冗談ではなく実際にあったと読んだことがあるけれど、そういう私とは別の意思のようなものを持った部分と捉えられていた側面があるのではないか。当時の日本人は性に対して大らかだったと言われる。確かに夫の上に妻が座りつながった状態で妻が子供を抱いてタライで水浴させようとしている絵なんかは、のほほんとさえしていた。でも発禁本と呼ばれるものであったのだから、やはり性にまつわることは本質的には秘め事で。 つまり性に対して寛容であったというのは、よくわからないもの、奇妙さを解明するのではなくそのままにしておき、そういったものとの付き合い方への大らかさであったとも言えるように思う。 見目美しいもの、整った様相のなかにグロテスクなものが垣間見えるそのバランスが官能を誘発し、絵の腕前もあるけれどそれよりこのバランス感覚が決め手だと思った。見ていていいと思うものとあんまり惹かれないものが結構はっきりあった。秀逸だったのは最後の部屋に展示されていた永青文庫収蔵の何十版も重ねた上に紙に型押しまで施された作品だった。見せ方と隠し方、一枚に込められた熱量が群を抜いていた。