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流出雑記 

2015/9/16

2015年09月16日 | Weblog
二足歩行も板につき
りんごの皮を剥くことも
張り子の虎と馬を
握りつぶす握力も身に付いた頃
虎の毛並を転写し
馬のたてがみを移植して
虎馬の化身となり
書き割りの背景をなぎ倒し
ハリボテの人物たちの喉笛を掻き切り血糊を浴び
フィクションの瓦礫のなかで虎馬は
四つ足で駆け回る
二足歩行も言葉も忘れ
りんごを丸ごと噛み砕き
最後尾の客席のはるか彼方に届く声量で
脈打つ喉からうねる産声を
上げた

2015/9/15

2015年09月15日 | Weblog
まごうことなきまがいものは
間借りして暮らす四畳半の
カッコウの巣の上で
息を潜めて貧困に喘ぎつつ
声を潜めて求婚申込み
判をつく朱の肉付き
その豊満さに
愛らしきものの所在を確認する
茶碗を並べた食卓風景
白飯時々混ぜご飯
まどろんだまごうことなきまがいものは
孫を抱く夢から目覚め
NECの扇風機がひたすら
首を振るのを見ていた

2015/9/14

2015年09月14日 | Weblog
永遠はとわと読む

恒久の新鮮さを誓った
食品サンプルの不腐の精神
永遠のレタス
永遠のオムライス
丸い黄色い安心な
ぬかりのない円満に
ケチャップでハートかいたら
もう思い残すことは何もなく
不動の安楽椅子
ガラスケースで永遠の眠りにつく

2015/9/13

2015年09月13日 | Weblog
ピーナッツ

注意深く力を抜いて
七度転んで八度目ついに
末広がりの予兆をみて
思慮の深まりに伴い
重心が急降下
落下傘で不時着したのは八街で
一命を取り留めた喜びに
落花生
食べ過ぎて鼻血を出し
生きてることを実感!

2015/9/12

2015年09月12日 | Weblog

このパソコンはたいふうと変換するとタイ風と出てしまう。台風が過ぎたあと秋晴れが続く。

中之島の国立国際美術館にヴォルフガング ティルマンスの写真展を見に行く。

京阪で出町柳から淀屋橋。別に取り立ててカレー好きでもない夫にはなぜか大阪に行きたいカレー屋が2件あり、そのうちの本町にある1件に行くことになった。お昼時の御堂筋、1本裏通りを歩くとランチタイムの飲食店で賑やかだった。目的のカレー屋にたどり着いたのは12時40分くらいで、オフィス街のランチ客は引けた後なのか店はカウンターにお客ひとりだった。ほとんどのカレーがひき肉を使ったキーマカレーで、牛、鶏、野菜の他に、鴨、鶏レバー、馬、マトン、山羊などの肉を使ったものもあるちょっと変わったカレー屋。1皿に3種類のルーをかけてもらえるのがメニューにあり、夫、馬、マトン、鶏レバー。私、野菜、鶏、鴨を選ぶ。運ばれて来たカレーはルーそれぞれ色味はやや違えど、どうしてこういう色になったのかと思うほど一貫して黒い。スパイスの強さが特徴のカレーだとは事前に聞いていた。特にクセのある肉のカレーはスパイスの使用量も多いらしく、マトンやレバーは一段と黒い。このスパイスは単に辛いチリの量ではなくて、クミンやコリアンダーなどの辛味より香りの香辛料のスパイシーさで辛味ばかりが立っているのではない。ジンギスカン等が苦手な私がマトンを味見してもまったくクセを感じなかった。それくらいにスパイスの香りが勝っている。どうやって作っているのか分からないけれどルーの油の量も多く、ごはんがルーから出た油分を吸って黄色になっている。肉とスパイスを煎じ詰めたようなルーは濃く塩気も比較的強い。それが惜しみない量掛かっていてそのわりにごはんの量が少ない。それでこのカレーがおいしいかどうかなのだけれど、おいしくはある。他のところにはない味覚だとも思う。けれどいろんなことがややアンバランスで、やっぱりスパイスと油が過剰で、後半食べるのが辛くなってくる。店主は見るからにこだわりのありそうな人で、作るものにもそういったこだわりを踏み越えた自己主張がしみ出しているというか、その傾向が強すぎ、そういう食事をすると胃が疲れるのだった。私の食べきれない分を手伝う夫は変な汗をかき始めていた。たぶん人生のなかでいちばん香辛料を取った食事だったと思う。消化器が香辛料の詰め物になったようだった。

美術館。入り口のところで警備員のおじさんに口のなかのものを捨ててからご入館くださいますかと言われた。それはガムのことだったんだけれど、そういうことを初めて言われたのでもしや毛穴からカレーのにおいがし始めているのかと一瞬思った。

ティルマンスの写真をそんなにいいと思ったことがなかった。と言っても一冊の写真集を見たことがあるくらいだったのだけれど、ピンとこなかったので、今回はどうみえるものかと思っていた。

カメラは写真を撮る機械というより世界にある様々なレイヤーのものごとに焦点を合わせる機会なんじゃないかと思わされた。スナップ的、社会的、審美的、感覚的な散在する視点の置きどころから捉えられた写真のプリントが大小様々壁面に貼り付けられている。
近づいたり離れたりしながら展示を見ることに「気が散る」感じがずっと並走していた。堂々と引き伸ばされた1枚を見ようとしてもそこにはテレビの砂嵐みたいなものが全面に写っている。こんなでかいのに何も見えんというような、見ようとすることを挫かれることが大小あって、なおかつ挫かれない写真もある。なんでこれ撮ったのか何が写っているのか、ということより見ることに仕掛けられた距離の様々を渡る感じだった。

写真という表現について考える。絶景、美しい鳥、戦場の光景、決定的瞬間、何気ない日常…さまざまなものに向けられるカメラの目と切り取られる像。撮られた写真に写っているものを見る。その画面のなかにはシャッターを切るに至った何かしらの動機となったものが写り込んでいる。撮る人が目を向けるものの傾向は否が応にも写真に反映され、それが作風と呼ばれ、写真の評価というものもそこに焦点がおかれるのだろうけれど、ティルマンスは意図的にそういうふうな作風に寄らない撮り方をしているように思えた。むしろ作家としてカメラを構えることに目を縛らないことを自分に課した目の存在を創造しているというか、日常的な私たちの目のあり方、様々なレイヤーでものを見る目を維持することを基盤にしているように感じられた。だからといって日常の些細なもの、なんでもないようなフラジャイルな一瞬や偶然生まれるコンポジションなどに価値を置いているのでもなく、目にうつるものを即物的に見、そこから思考が動くに及ぶものを対象化していることだけは写真を見ていてよくわかる。そういうものをなんでもなく撮る、ということをしている。カメラを構えた自分の発見に魅せられてシャッターを切るという関係の取り方ではない。

写真は写し撮られたものが作品となる。例えば、聞いたこともない異国の少数民族の儀式における仮装の姿や、ベトナム戦争の戦時下、密林を膝下まで水に浸かりながらけが人を担架で運んでいく様を撮った奇妙な神秘性を帯びた写真などを見るとき、そこに写っている像の持つ魅力に引きつけられてそれを見る。そのとき私はその写真にそれが写真であることに魅せられているのではなく、記録されたもののありさまに魅せられているとも言える。では記録映像でもよかったのかも知れないとも思ってみたけれど、それは一概にそうとも言えない。その状態に至る前後の事情等から切り離され、そこに射していた光によって写しだされたものがただ現実を告発することに留まらない力を秘めた一瞬として凝固してしまう場合だってある。写し撮られたものに問答無用に惹かれるということはあるし、最近のことで言えばロジャー バレンの写真、もう少し前だとマリオ ジャコメッリの写真が私にとってそういうものだった。写真の何を見て何を価値とするか、このことはもう少し広く言うと芸術に何を求めるのかということにもつながってくる。これは私の場合は、という言い方になるけれど、私の場合ティルマンスのやろうとしていることには共感を覚える、中平卓馬の貫かれた写真への態度、写真を考えることから紡がれた言葉、特に「私」と世界との関わりの在り方に本当の意味で真摯というのがどういうことかを知らされた。それらは思考が動かされるという意味においての芸術体験で、これとは別に思考ではないものに働きかけてくるものがある。思考ではないもの。これを何と呼んだらいいのか、精神とか魂という言葉を使ってしまうとどこか言いそびれる。コンセプトの説明もコンテクストの理解も必要としないで直接やってくる。強く、そうだ、という感覚があってそれは傲慢を恐れず言うなら、私の手の届かないところにあった私だという感覚で、自分の生きていることに重なり関わってくるものだけれど、それ以上のことはわからない。でも人を好きになることによく似ている。感動し打ちのめされるのだけど、自分も何かしないではいられなくなる。結果自分のかたちが変わるようなこと。


2015/9/11

2015年09月11日 | Weblog
投げ捨ててもバウンドして戻ってくる
遠く置き去っても迷わず帰ってくる
たとえ居留守を使っても
押入れに身を隠しても
いささかのいたしかたなさの帰巣本能は
いつでも目を見開いて
まばたきを忘れるほど
いささか厄介に
無事帰還しては
冴え渡った犬の目で私を見
指し示す
シリウスに向かって飛べ




2015/9/10

2015年09月10日 | Weblog
補助輪付きで走るとやたらうるさかった。それはやむを得ず補助輪を付けている本人にとってもそうだった。補助輪を外すときは最初片方、その次両方、最後は手で支えられ、ぐらぐらしながらペダルをこぐけれどすぐに足を着いてしまう。そのうち支える手は知らないうちに放されて、1、2度転けて、放した手に怒って涙目になりながら、スピードをある程度出さないとふらつくことがわかってくる。いつの間にか座っている中心に軸ができたように安定して、苦もなく薄い2輪の上に乗って右にも左にも、自在に操ることができるようになってしまうけれど、そうなってしまったら乗れない体のやり方はずっと遠退いて、乗れない方法というのは、もうなかなか思い出せない。

2015/9/9

2015年09月09日 | Weblog
花嫁

潤滑にいかない日々の不純物の混入にも
純正油をさせば多少滑りはよくなって
潤沢な加速をもらって一挙に
純情を順次出荷し
殉職をも辞さぬ覚悟の純真無垢で
純白を重ね身をひそめ角を隠し
三三九度にありつくのだ

2015/9/8

2015年09月08日 | Weblog
閑古鳥の歓呼を聞きつけて
廃屋の物置から
後光を引き連れて
待ち人来たる
風の噂を聞きつけて
啄木鳥も馳せ参じ
空に穿った真実の口
手を伸べれば
宇宙の尾に触れることも
ティッシュを引き出すことも
温い手に握り返されることもある
万難排し翡翠が
みずうみを藍悼色に染め
静かな湖畔の森の陰から
這い出てくる
名前を忘れられた
失せ物が目を醒ます


2015/9/7

2015年09月07日 | Weblog
完璧なマドレーヌの膨らみ
眠る猫の猫背
授業中に窓から見える気球船
アイスクリームの乗った飲み物
萩の葉
春一番のばらの蕾
湯気の立ったお風呂場の普通の石けんのにおい

1分30秒で思い付く限りの幸せな感じのするもの