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流出雑記 

2015/9/17

2015年09月17日 | Weblog

なんで最近詩のような言葉を書いているかというと、言葉が生む動きというもののことを考えるところから、日記的な語り口でない言葉の編成を試す必然が出て来たため、だと思う。

日記だと一日のうちの行動や移動や、ものを見て感じたことの動きをクロッキー的にざっと描き取ることができる。小説的な書き方だとある場所やそこにあるもの、人物の感覚や動き、状態をもっと克明に書くことができるというか、言葉と言葉のあいだからもっと書くことが見つかり、そういう導線に導かれて展開する、長く書くことで出てくる動きがある。詩のような言葉の編成には言葉自体の音や並び、遊びの感覚と意味の転倒、ぶつかり合いでめまぐるしい動きが起きる。そういうことは書いてみてようやくわかってきた。

読む人のなかにどういう知覚、感覚の動きを引き起こすことができるか。この読む人は書きながら読んでいる私も含まれる。 つまりキーを叩きながら考えていることは一向にダンスのことなのだけれど。もうひとつ書くことにこだわりはじめた理由は多分、浅瀬で言葉にできないとか言葉にならないというような感覚に自分がなるとしたらそれは言葉にすることへの怠惰だと思う節があり、例えば自分がダンスを、しようとかやりたいと思うときに言葉で型取れるイメージの方が的確に言えてしまうようなところに体を据えてニュアンスをまとわせてなんとなく動くことがどうしても許せなくなってしまったので、浮かんでしまうイメージや私的なもの詩的なものはもう全部書き尽くしてそれでも尚ダンスでしかやれないものがあるとしたらそれだけをやりたい。もちろん絶対に言葉にできないものはあるという信条の上で。言葉にできない、それは何なのかというようなことを思ったため、だと思う。